先日ご紹介した山崎行太郎氏の曾野綾子批判ですが、
まだまだ続いています。ぼくは前にも書いたように、曾野綾子の元の本を読んでないので(これから先も読むことはないでしょう)、本来はなにも言うべきではないのかもしれませんけど、しかし山崎氏のブログを読んでいると、やっぱり曾野綾子に対して、ホント怒りしか湧いてきません。
今回の文章のテーマは沖縄の女子どもを次々と斬首した責任者の娘に対しては「お嬢さん」とか「令嬢」という言葉を使う曾野綾子のかなり露骨な作為。意識的か無意識かはわからないけど、曾野綾子に差別意識は間違いなくあると思うし、なぜだか知らないけど、彼女にとって軍隊が実は一般市民など守りはしないのだという事実(だって問題の部隊が殺した人間の数は敵のアメリカ軍よりも、沖縄の一般人のほうがけた外れに多いわけですからね)が、とても不愉快な、あるいは不都合な事実らしいことがわかる。しかし、なぜなんでしょう?? 謎だ。
前にも書いたように、この責任者がやったことにたいして、では、あの状態にお前が置かれたらどうした?と聞かれたときに、きちんと答えられる人間などいないだろう。きっと人間はそういうものなのだ。 だから仕方がない、 ではなく、それを直視しなくてはならないのが、本人は無論のこと、後世の僕らの努めなんだと思う。
彼らは、自らが行った「悪」(罪)を認めず、あろう事か自己弁護に走る(そこには曾野綾子が たきつけた という面もあると思う)、なんてことをするのではなく、せめて、自らの手で殺した人々の供養をしながら、自らの過ち(罪)に向き合うべきだったのだと思う。だからこそ、曾野綾子の意図がわからないし、なぜ次々と斬首された沖縄の娘たちは戦争だったから仕方がないのに、その責任者の娘は「お嬢さん」とか「令嬢」と呼ばれるのか?? 山崎氏が指摘する通り、本当に胸くそがわるくなる。
撫順の奇蹟を受け継ぐ会というのがある。以前紹介した森達也の「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのかと叫ぶ人に訊きたい」の中にも出てくる。その証言集会で、みずから中国人農民を多数殺した97歳の元皇軍兵士が、「もしもまた同じような状況になったら。。。どうしますか」と問われ、「私はまた、同じようにするでしょう。皆さんもそうです。それが戦争です」と辛そうに、苦しそうに答える(351ページ)。
こういう話を読むと沖縄の女子どもを斬首した責任者との違いがはっきりする。自らの犯した罪(悪)を直視すること、そして、それを後世に伝えていき、二度と同じことを繰り返させないようにすること、これが「悪」を(はからずも)なしてしまった人間の取るべき対度ではないのか? そして、同じことは戦争だけでなく、あらゆる重大な過ちを犯した責任ある者すべてに言えるのではないのか?
山崎行太郎氏の一連のこの曾野綾子批判、まだ続きそうな勢いですし、これは、もう、是非とも本にして出版して欲しいと切に願っています。

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