山崎行太郎という人の「文藝評論家・山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』」をご存知でしょうか?正直に言うと、ぼくは政治の話が好きなわけではない。むしろ嫌いだと言っても良い。だから、このブログの熱心な読者というわけではない。だから、今回このブログに10回近くに渡って書かれた曾野綾子批判の記事を読んだのはたまたまだった。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20131109/1383950817 以下、このブログに書かれていることを紹介したい。
曾野綾子、以前から、どうも かなりうさんくさい と思っていたので、溜飲の下がる思いだった。2011年に確定した大江健三郎と岩波書店の沖縄戦裁判の関連した話である。要は、日本軍による沖縄住民への集団自決の強制は、あったか、なかったか、ということだが、山崎行太郎氏の書いた一連の記事を読むと、それとは別に、問題の日本軍の行った非道なことが山のように出てくる。集団自決を強制しようが、しまいが、それ以前に、善意から投降を勧めに来た女子どもを次々と斬り殺し、スパイではないかと疑われた学校の副校長も斬り殺し、朝鮮人軍夫も処刑する。曾野綾子はその事実を知りながら、自著の「ある神話の背景」では、そのように「残虐な殺人鬼集団と化してしまった」日本兵たちの名誉回復を図ろうとするとともに、そうした部隊の責任者や関係者をたきつけて、大江と岩波書店に対して名誉毀損の訴えを起こさせたのである。ただ、この裁判、そもそもの発端からして曾野綾子が大江健三郎の「沖縄ノート」の文章を誤読したことから始まったというのも、山崎行太郎氏、よくぞ、読み当てたと感心した。
沖縄の戦争、前に書いたように僕の連れ合いの両親は沖縄の出身で、もうすぐ90になるという義母はひめゆりの生き残り、20年ほど前に他界した義父は家族をすべて失っている。遺骨はおろか写真すらない。二人から沖縄戦の話を聞いたことは無いが、僕らには想像もつかないような悲惨な状況だったのだろう、ということぐらいはわかる。
そのような事態になれば、僕だって何をしたかわからない。拙ブログのメインテーマだけど、この世の中にはごくごく少数の悪い奴とその他大多数の普通の人がいるわけではない。普通の人がなにかのきっかけで悪いことをするのだ。だから、「残虐な殺人鬼集団と化してしまった」日本兵たちだって、故郷に戻れば普通の人で、周りの人たちから慕われたり、良き父親だったり、あるいは母の自慢の息子だったのかもしれない。だから、戦争という特別な状況の下での狂気が、彼らを「残虐な殺人集団と化してしまった」のだろう。100歩ゆずれば、やったことは戦争のせいだと言い訳することはできるかもしれない。(もっとも、そうした狂気の状態のなかでも、(「人間の条件」の中の主人公のように)人間らしさを失わなかった人たちも、きっといたと思う。ただ、そうした人たちは、(やっぱり「人間の条件」の中の主人公のように)おそらく生き残れなかっただろう。)
だから、問題はその後のことである。戦後になって、鬼から人間に戻ったはずなのに、自分が行った所業を反省することなく、むしろ正当化しようとするのは、これは恥ずべきことである。
そして、そうした元軍人たちの自己欺瞞を、政治的な意図を持って(!)背後から応援した曾野綾子も、当然非難されてしかるべきである。ひょっとしたら、旧軍人たちの中には、戦争中にやった自分の残虐行為を夢に見て、うなされ、罪の意識にとらわれていた者もいたのではないだろうか。ところが、そこに自分たちのやった残虐行為を弁護してくれる人が出てきた。昔読んだ「カラマーゾフの兄弟」のなかで、ロシア正教の司祭のゾシマ長老というのが、人間は嘘をつき続けると、その嘘が本当のことだと思い込んでしまうものだ、というようなことを言うシーンがあった(と思う)。
曾野綾子は彼らのやった鬼のような行為を擁護することによって(しかもそれが悪質なのは政治的な意図からおこなったことだ)、彼らが感じていたかもしれない罪の意識を忘れさせるという、文字通り曾野綾子が自ら信じているというキリスト教的な意味で、告解により神に許しを請う機会を奪い、地獄へおとすという悪魔の誘惑のようなことをしたのではないだろうか?

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