いつものようにシネフィル・イマジカで撮った奴。1932年の映画で、なおかつオリジナルのネガが散逸してしまって、それを復元したものだそうだ。
以前拙ブログで紹介した1931年のフリッツ・ラング監督の「M」に比べてストーリーから見ると破綻しているし、説明が要領良くない。サイレントのように画面一杯の字幕でいろいろ説明されるんだけど、文字で説明しすぎという感じもする。だけど、その字幕がなかったらストーリーは意味が分からなかっただろう。そもそもサイレント映画か??っていうぐらい台詞が極端に少ない。ただ、音楽だけはのべつ幕なしに流れ続けている。
ストーリーを細かく説明するのはかなり困難。そもそも意味不明の所も多いし。。。まあ、オカルティズムの研究に没頭しすぎて幻想と現実の境界が曖昧になってしまった青年が、とある村の川沿いの旅籠にたどり着くと、そこで夜中に見知らぬ幽霊のような老人が現れて、青年は吸血鬼について書かれた本を託される。で、青年は影に導かれて、その老人が娘二人と住む城へたどり着くと、どういうわけか、その老人が青年の目の前で死んでしまう。
娘二人のうち長女は吸血鬼に取り憑かれていて、瀕死の状態でベッドに伏している。青年は老人が残した本を読んで、どうやら25年前に悪行の果てに懺悔することなく死んだ老婆が、悪魔の力によって吸血鬼として復活し、医者を手下として使っているらしいことがわかり、館の召使いと一緒に老婆の墓をあけて杭を打ち込んで退治し、手下の医者も水車小屋で小麦粉で生き埋めにしてやっつけるというのが大筋の所だろうけど、ただ、あちこちでよくわからない話が、おおもとの筋から外れて語られる。で、この映画の魅力はむしろそうしたところで現れる画面の圧倒的な迫力にある。
たとえば、始まってすぐに旅籠の天使の看板が大写しになり、さらに旅籠の裏の川へ向かう大鎌をもった男の姿が映し出されるんだけど、これが、上のDVDのカバーになっているような、まるで恐怖映画の典型のような圧倒的な映像。

天使の看板はこんな感じ。これが繰り返して出てくる。
また、旅籠の雰囲気が不気味なのは、室内を全体的に下から見上げるような角度で映していて、これなど、ヒッチコックの「サイコ」のモーテルのシーンなんかの先取りだ。

あおるような感じで天上が写っているのが怖いんだよねぇ。
ほかにも、青年を館まで案内する川面に映る影や、吸血鬼の手下の医者が住んでいる廃墟のような建物では、墓堀人の影やその他にもいろんな影たちがうごめいていて、老人が死ぬシーンでは影が銃を撃つシーンがはさまる。

このシーンは医者の子分の義足の男のところに影が戻っていくシーン。

こちらは天上に写った銃を構えて老人を狙う影。
そしてなにより怖いのは、最後のほうで主人公の青年が、これまたなぜか幽体離脱するんだけど、その魂が医者のところで自分が横たわる棺桶を見つけるシークエンス。向こうの棺桶って顔のところがガラスになっていて、目をカッと見開いた青年の目から、つまり運ばれていく棺桶の中からみた風景が続く。最初は部屋の天井で、その後ドアを出て木々の梢と空と教会の塔などが見えてくる。
あるいは最後の小麦粉で生き埋めにされる吸血鬼の手下の医者も、鉄格子を握りしめたまま苦悶のうちに死ぬんだけど、なんだか気の毒な死に方だ。

ここで出てくる吸血鬼はその後の映画などで繰り返されたイメージとは違っていて、そもそも老婆だし、取り憑かれた娘は吸血鬼になるわけではなく、吸血鬼に吸われた血を補充したいと願うとともに、そんな自分に自己嫌悪して自殺の衝動に駆られている。そして吸血鬼自体が悪魔の手下なわけだから、犠牲者を自殺させれば、その魂は悪魔のものになるので(キリスト教では自殺者は地獄へ堕ちる)、娘をなんとか自殺させたいと考えているわけである。
カール・テオ・ドライアーという監督はデンマークの人で、これは復元したもので、できた当時のものは残っていないらしいんだけど、ストーリーが分かりにくいし、要領が悪いのは復元のせいかもしれないけどね。現代の映画に慣れている人にとっては、退屈かもしれないし、見たことあるようなやり方だと思うかもしれないけどね。でも、白黒のなんとなく北欧の神秘的な雰囲気はベルイマンがきっと参考にしたんだろうなぁ、とか、人の顔の表情の切り取り方とか、後ろ姿でその顔を想像させるようなシーンとか、古典だと思えばそれなりに楽しめるところはたくさんあると思う。

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