先にご紹介した諏訪哲史の小説からです。小説そのものとは関係ないけど、ちょっと抜き出しておきたい台詞があったので、書いておきます。
「営利会社とは、どこも同じだ。(中略)彼らは否応なくがめつさを強いられ、いくら抗っても、その都度数字が楔として突きつけられている以上、思い描いていた洒脱な無関心さを身にまとって生きることはできない。意地汚く泥を啜って利潤を追求せねばならない。それは、誰がどう見ても、明らかに意地汚い営為であるのに、上層管理者は、いや、そうではない、輝かしい成果、企業人として規範となるべき行為だ、とその意地汚さ、がめつさを、体裁のいい言葉に翻訳して、これみよがしに讃めたたえる。意地汚さの度合いの高い低いが、人事考課に如実に反映し、合理的実績主義などと称して、個々人の昇給・昇格や半期ごとの賞与額までをあからさまに左右する。」(35ページ)
まあ、小説家なんていう営利会社に所属していない人間の勝手な(偉そうな?)言いぐさだ、ということは簡単ですけど、グローバル化が叫ばれ、なんでもありの新自由主義的風潮、パイのぶんどり合いじみた競争社会を肯定する風潮が幅をきかせるようになって以来、「がめつさ」「意地汚さを、体裁のいい言葉に翻訳して、これ見よがしに讃めたたえる」ようになっているのではないか? この自覚が現代社会にはなさ過ぎるのではないか? そんな気がしませんか?
まあ、自分が営利会社に属していれば、こんな暢気なこと言っているヒマはないけどね。ただ、こういうことにみんなが少しでも自覚的であれば、誰にとっても今よりは、すこしだけ、生きやすい社会になるような気がするんだけど。。。

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