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ドーピングはなぜ駄目なのか?(長文注意) ドーピングはなぜ駄目なのか?(その2) また、いろんなコメントを寄せてくれた方々に感謝いたします。そのうえで、繰り返しになることもあると思うけど、もう少し書きます。
で、さっそく繰り返しになるけど、アンチドーピングの論拠は次の二つの点に集約されるんだと思うけど、どうでしょう? いろんな個別の問題も、すべてこの二点に集約できるのではないでしょうか?
1)健康の問題
2)倫理的な問題
2)の倫理的な問題、つまり、自分のもてる能力を十全に発揮して、優劣を競うというスポーツの本来の目的に対して、外部から能力向上のための異物を取り込むことは卑怯であるという問題、しかし、これだけだとどうしても線引きが曖昧になるんじゃないか、というのが、前回も書いたツュッレのインタビューにからめて、美味しいコーヒーと能力向上目的のコーヒーの話だったわけです。いわゆるドーピングの「メンタリティ」まで否定できるのか?
それでも選手の健康被害があるんだから駄目だという1)の論拠に対して、医者がかかわって、選手の健康被害を、仮に(あくまでも仮にだ)一般の人々が服用する風邪薬程度の副作用まで軽減できるのだったらどうか?といわれたとき、これを論破できるアンチドーピングの論拠があるのか?というのが、ぐだぐだ書いてきたこれまでのこのテーマのポイント。
以下、もう少し思いつくまま、書いてみたい。
スポーツにおける倫理ってなにか、って考えると、そこには相手の弱点を突いて勝とうとするという、一般道徳から考えれば「卑怯」な面が必ずある。勝敗を直接争う競技の場以外でも、トレーニングの場においてでも、ライバルの鼻をあかしてやるというのは許される。例えば戦前の自転車の練習方法は、なにしろ長時間やみくもに自転車に乗ることだったそうだ。毎日、時速25キロ平均で10時間以上乗る。これが一番の練習方法だったらしい。ツールで変速機が使用不可だった時代には、選手たちの練習といえば、ひたすら持久力をつけることだっただろうというのは想像できる。
ここからは想像だけど、その後変速機が解禁され、練習方法は改良されて、インターバル練習が能力を向上するためには非常に有効だというのが分かってくる。この「分かってくる」っていうのがどういう風に分かってきたのかはわからないけど、このインターバルだって最初に取り入れた選手やチームは、できれば他の選手には知らせまいとしたはずだ。間違ってもライバルにインターバルトレーニングは効果あるよ、なんて教える奴はいなかっただろう。あるいは高地練習なんていうのだってそうだ。できることならこうした練習方法はライバルたちには知られたくなかったはずだ。こうして色々工夫しながら、一番効果的な練習方法を取り入れていくことは、倫理的に批判されるものではない。当たり前の話だ。
だけど、ここからライバルの知らない能力向上の方法としての新しい薬まで、心情的にはあと一歩だよね。むろんこの一歩こそが境界線なんだろうけど、でもこの境界線は実はそんなに簡単に引けるわけではないのは、コーヒーの話で分かってもらえるんじゃないかと思うんだけど。
それから、ドーピング解禁によって公平性が担保される、と考えるのは間違っていると思う。これはコメントを下さった方も書いていたように、資金力の問題が大きく絡んでくるし、そもそも同じ薬を使えば、誰でも同じように能力を向上させられるわけではない。そこは医者の腕の見せ所だと言ったら、選手の能力か医者の能力か、どっちを競っているんだ、って話になる。
だけど、良いトレーナー(=コーチ、監督)につくかどうかも選手の能力を向上させる要因の一つだ。そうすると選手の能力かトレーナーの能力か、どっちを競っているんだ、って話になるのではないのか?むろんよいトレーナーにつくことと、よいドーピング医師につくことを同列にすべきではないが、しかし、良いトレーナーにつくことだって資金力の問題があるし、同じトレーニングをしたって同じように能力を向上させられるわけではなく、選手それぞれとの相性というものもあるだろう。だが、薬にも相性があるのだ、といえば同じような話にならないだろうか?
先に「一般の人々が服用する風邪薬程度の副作用」という書き方をしたけど、はたしてそれが可能なのか?という問題もある。確かにEPO出始めの頃は死者も多数出た。でも、むろんもっと先にならなければわからないかもしれないけど、あれほど大がかりに、多数の選手がドーピングを行っていた(と思われる)「アームストロングの時代」に、統計上意味がある健康被害が、選手たちの間に生まれているのだろうか? 国家ぐるみだったと言われている東ドイツの女子選手たちのなかには男性ホルモンの投与のおかげで性同一性障害を抱えた元選手というのもいるそうだ(数年前の朝日新聞にあった)が、こういう極端なケースは別にしても、説得力のある健康被害が生じているのかどうか?
しかし、薬である以上どんなに医者が頑張ったって副作用がないものはない。だからこそ、僕らがふつうに飲む「風邪薬程度」の副作用と書いたわけ。といったってインフルエンザ治療薬のタミフルで意識障害を起こした例は何件もあるわけだ。
あと、もう一つ思いついたのは、プラシーボ効果というやつ。痛み止めと言ってデンプンのカプセルを飲ませると三割以上の人が痛みが軽減されるというやつ。これは副作用もないし、検査で陽性にも絶対ならない。でもこれってどうよ? まあ、ここまでくると半分冗談の領域に足突っ込んでますね。
ぼくが少し心惹かれるのは、前々回にも書いたけど、薬というものは必ず副作用があり、その副作用と天秤にかけて、それでも使った方が良いという病気や怪我以外は薬というものは使うべきではない、ということだ。だから、ドーピングの話は現代の過剰な薬依存の社会に対する警鐘(最近もデータ捏造なんて事件があったしね)にもなるんじゃないかっていう考え方。ちょっとこれには心惹かれるものがある。最近話題になった近藤誠の本(だけじゃないけど)なんかを読むと、薬には良いことなど何もない、すべて製薬会社の陰謀だっていう論調だしね。まあ、この人の主張はちょっと極端だとは思うけど……
それから、もう一つ大切なことは、論拠が示されるかどうかにかかわらず、感覚的なものも大切にしなければならないってこと。頭でっかちになってしまってはいけない。逆に言えば、論拠があるからといって、自分の感覚的な思いを圧殺してはいけないってことでしょう。もっともこれはどんなことにも言えることでしょうけど、と、ちと偉そうですが。
というわけで、何度も書いたけど、ぼくはドーピングに絶対反対だ。感覚的な言い方しかできないけど、ドーピングを許容したらエスカレートしていき、行きつく先はロボットの闘いになってしまうだろうと思われるからだ。ただ、これまで書いてきたように、残念ながら、いまのところ「理屈」の面でしっかりとドーピングを否定できないでいるというわけ。
だけど、今日の東京新聞にも載っていたけど、今世界陸上が行われているけど、日本の放送では、これだけ世界中を騒がせているドーピングの問題に全く触れないそうだ。(僕は放送を見てないのであくまで「だそうだ」。)ドーピングなんて言ったら白けるじゃないか、視聴率にも差し障る、って思っているんだろう。でも、それで良いんだろうか? 現在のトップスポーツでは、おそらくどの種目でもドーピングは喫緊の問題ではないのか? あまりに当たり前な言い方で、書いてて恥ずかしいけど、選手だけでなく、ぼくらファンも含めてみんなが、この問題をきちんと考えるっていうことがドーピングをなくす第一歩だろうに、と思う。
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