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ドーピングはなぜ駄目なのか? (長文注意)

2013.08.12.12:17

題名から僕がドーピングを容認しているように思う人もいるかもしれないので、先に書いておく。

僕はドーピングには絶対に反対である。

だけど、それは理屈ではなく、なんか感覚的なものである。ちょうど、「このまま行けば日本はとんでもない国になる」というのと同じような感覚だ。そんなの考えすぎだよ、という人にはこの感覚は理解してもらえないだろう。

それはこんな感覚。

ドーピングを放置したらどんどんエスカレートしていくだろう。そして能力向上薬の効能にだって限界があるとなれば、その次に待っているのは人体改造だろう。遺伝子レベルでのドーピングが始まるだろう。そうなればスポーツはロボットの闘いだ。そんなものを見て楽しいだろうか?

そんなはずあるものか、考えすぎだよ、って思う人もいると思う。上記の日本の現状に対する批判だって、多くの人がそう考えているんだろうと思う。否定ではなく、「そんなの考えすぎだよ」という無関心。まあ、全面否定するネトウヨさんもいるように、ドーピングのほうも容認する人もいるのかもしれないけど。

ただ、上記のような「感覚」(予感?)はともかく、前から、ドーピングを批判する「理屈」に説得力がいまひとつ感じられない。ヴィキペディアには哲学者の加藤尚武という人の説が引用されているけど、それをいくら読んでも僕にはどうもしっくりこない。このエントリーでは「感覚」ではなく、「理屈」にこだわってみたい。

まず、前提に、スポーツである以上、競技(試合)に参加する選手たちの目的は勝つことだ、というのがある。勝ちにこだわりすぎると勝利至上主義と言われて蔑まれるが、でもルールを犯さない限り、場合によっては審判に見つからない限り(サッカーを見てご覧よ)、勝つために競技(試合)に参加するわけだ。正々堂々と闘うという言葉もよく聞く。正々堂々という言葉は通常「真正面から」とか「策を弄さず」というニュアンスで使うと思うが、スポーツの世界で相手の裏をかいたり、弱点をつくのは当たり前の話だ。

自転車レースだって、逃げたのにツキイチで一度も前を引かなかった選手が、ゴールスプリントで優勝したら、キタナイと言われたって、勝ちは勝ち。失格にはならないし、優勝賞金を得るのも歴代優勝者のリストに名が残るのも勝った者だ。一般社会だったら(特に今の日本だったら)大バッシングで、優勝した選手は岩手の市議さんみたいに自殺するかもしれない(漫画みたいな話が現実に今の日本では起きている)。

つまり何が言いたいかというと、選手たちの勝ちたいと思う気持ちは純粋なもので、それはルールに則っている限り、あるいは審判が反則だと言わない限り、非難はできない。スポーツに日常生活上の道徳律を持ち込むのは間違いだ、ということだ。

まずこのことを前提にしておいて、さて、ではなぜドーピングをしてはいけないか? これに対する解答はおおむね次の二点ではないだろうか?

1)選手の健康を守るため。
2)薬を使う選手と使わない選手がいて不公平であるため。

1)については、そもそも薬以前に、競技スポーツというものが、すでに不健康なものである。スポーツには怪我がつきものだし、特に自転車ロードレースは疲労の限界を争うような面もある。ツールなど毎日150キロ以上を3週間、しかもその間に2000メートルを超える山をいくつも越えていくのである。一般人には絶対にできないことだし、超一流選手たちだって疲労の極致に達しているはずである。

自転車競技とドーピングの歴史を遡ってみれば、ドーピングは能力向上ではなく、疲労回復から始まったのである。選手でなくても、疲れれば栄養ドリンクを飲む人は多いだろう。自転車競技は最初のプロスポーツのひとつである。すでに20世紀になる前から、トップ選手たちは本業の片手間に自転車に乗っていたわけではない。片手間では練習の時間が取れない。彼らは自分の職業を放棄してロードやトラックのレースに出て賞金を稼いでいたのである。しかも他のプロスポーツに比べて自転車競技は過酷である。しかし、選手たちは生活がかかっている。疲れたからといって練習やレースを休むわけにはいかない。疲労回復のためにさまざまな薬が不可欠だったと思われる。中には覚醒剤のような禁止薬物も含まれていたから、これは選手でなくとも法律違反だし、健康に甚大な被害を与えかねないものだっただろう。この時点ではたしかに薬は選手の健康を損ねかねない。

時代下って、EPO(これは疲労回復ではなく能力向上の薬である)が出始めの頃(1980年代後半から90年代の初め)には、ベルギーとオランダで自転車選手の突発死が多発した。ほとんどが睡眠中に心臓が止まるというものだった。ところが、イタリアではそんな事故は全くなかった。イタリアにはEPOの専門家のコンコーニやフェラーリという「優秀な」医者がいたからだ。

すると、彼らのような「優秀な」医者の管理のもとで、健康に悪影響を及ぼさないように緻密に薬を使っていけば、選手の健康被害は防げるではないか。

この論理に対抗する理屈が、僕にはどうもあまりうまく思いつかない。

そもそも、薬というものは本来なんであれ、すべて毒なのだ、という意見がある。どんな薬にも必ず副作用があるというわけだ。この意見には個人的には心惹かれるのだが、しかし、僕らの日常生活の中では、ちょっと風邪を引いた、ちょっと消化不良だ、果てはちょっと飲み過ぎた、こんなことでもすぐに薬に頼るではないか。むろん、その薬を使わなければ大変なことになる、というケースもたくさんあるだろうとは思う。しかし、世の中、健康な人までみんな薬漬けである。本来食品から取るべき栄養素だってサプリメントと称して普通に飲んでいる。薬というのは本来、身体の具合が悪く、薬の持つ副作用を勘案しても、服用した方がよいという時にだけ使うべきものなのだ。しかし、一般社会がこんな薬漬けで、選手だけは薬が使えないのはおかしい、というのもある意味で正しいのではないか?

いや、医者がどれほど厳格に取り扱ったとしても副作用はあるし、それを過小評価してはいけないという意見もあるだろう。でも、実際に、ドーピングをしていた元選手たちが早死にだったり、後遺障害がでたりしているだろうか。

アームストロングの睾丸癌は若い頃からのドーピングの影響だという説がある。アンクティルやフィニョンも50そこそこで癌で亡くなっている。特にフィニョンは自分が癌であることを知ったときに、まず医者に聞いたのが、若い頃にやったドーピングの影響か、ということだったそうだ。医者はそれを言下に否定したという。ほかにも国家ぐるみのドーピングを行っていたとされる旧東ドイツの元選手たちが早死にしているという話は聞いたことがないし、仮に統計を取ったところでドーピングのせいであることを証明するのは不可能だろう。

繰り返すが、一般人だって不要な薬、治療目的以外の薬やサプリメントのたぐいを多量に使っているのだ。

2)については、倫理的な意味でのドーピング批判である。薬を使って勝とうとするなんてずるい、ということだが、では、みんなが薬を使えば不公平ではなくなり、ずるくなくなるのではないか? 

プロなんだから何したって良いじゃないか、ルールさえ犯さなければ、薬だって良いことにしたらどうなんだ。こういう意見は結構根強くあるのではないだろうか。

しかし、ハミルトンの本を読むと、選手によってドーピングの薬に合う合わないというのもあるらしい。同じ薬を使っても、それによって同じ能力の向上が見込まれるわけではない。だから、みんなが薬を使ったとしても不公平は不公平なのだ。

不公平はスポーツの世界にはつきものだ。同じトレーニングをしたって同じように強くなるわけではない。150キロのボールは99.9999%以上の人が、どんな練習を積んでも投げられるようにはならない。

生まれついての素質があって、なおかつ厳しいトレーニングに適応できた選手がトップアスリートになれるのだとしたら、生まれついての薬に対する適応能力があり、なおかつ厳しいトレーニングにも適応できた選手がトップアスリートになってはいけないのか? 

本来自分の体内にないものを外部から取り入れて疲労を回復させたり能力を上げたりするのは、スポーツ本来の目的(健全な肉体と健全な精神の育成)とは相容れないものだ。確かにその通りだが、トップ競技スポーツの世界はそんな理想論をせせらわらうだろう。莫大な金と名誉のかかる世界だし、場合によっては議員になって権力まで手にできるかもしれないのだ。すでに競技に参加する目的はスポーツ本来の目的からはかけ離れている。

いやいや、選手はルールを破ることなく競い合うのだ、ルールで禁止されているものを使うのは間違っている、というかもしれないが、ではそもそもなぜドーピングはルールで禁止されたのだろう? 選手の健康を損ねるからだとしたら、1)にもどり、「優れた」専門医が厳格に薬のコントロールをしたらどうなのかという話になり、堂々めぐりだ。不公平だからだというのであれば、上記のようにスポーツにおける公平ってなんなのか、ということにつながる。

結局ヨーロッパではドーピングを禁止する法律がある国もあるが、どうも各国によって差があるようだし、すべての国にあるわけではない。国によっては詐欺罪を適用するなんていうアクロバチックなことをしているところもあるようだ。

というわけで、長々と書いてきたけど、要するに一般的に言われているドーピング批判は、なんか今ひとつ説得力が感じられないような気がする。この項はきっとこの先も書き足したり、削除したりし続けると思うけど、今回はとりあえずこのあたりでやめておきます。疑問反論を含めて、ご意見をお聞かせいただければ嬉しいです。

続きは以下をどうぞ。
ドーピングななぜ駄目なのか? (その2) へ
ドーピングはなぜ駄目なのか? (その3) へ


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comment

アンコウ
通りすがり さん、

コメントをどうもありがとうございました。

危険だから禁止ということになると、危険度がどのぐらいでダメか、どこまでなら良いかという話になってくるのかもしれませんね。

それから危険ということで言えば、スポーツ以外だって自動車で死ぬ人は、世界中を見れば、きっと毎年何10万人も死んでいると思うけど、車を廃止しようという話にはならない。それは車産業の経済的効果や、車があると便利だからということでしょうね。危険と経済性や便利さを天秤にかけているわけでしょう。スポーツの場合も危険と爽快感を天秤にかけているということでしょうかね?

理屈を言って仕舞えば、人間には、他人に害を及ぼさない限り、愚行をする権利も認められている、というのが当てはまるのかもしれません。法律用語で愚行権というそうです。例えば、体にとって何一ついいことはない、むしろ体を蝕むタバコを吸って自らの寿命を縮めるというのがよく例に挙げられるようです。覚せい剤の場合は他人に害を及ぼすからダメなんでしょうね。

ドーピングも日本ではあまり実感がないんだろうと思います。ドーピング違反で失格になった日本人は、ドーピングに無知で風邪薬を間違って飲んだ、とか、周囲のコーチや監督のミスにされがちですし、数年前にEPO陽性になった女子選手もいたけど、大した話題にならなかったですね。

なんか、思いつくままにだらだらと書いてしまいました。この記事は、ただ単にドーピングはダメだというのを前提にしていると、どうも、そこに欺瞞があるような気がして、もう一歩踏み込んで、なぜダメなのかを突き詰めてみたいと思って、ずいぶん時間をかけて書いたのでした。だいぶ前に書いたのですが、今でも、僕自身には、ここに書いたことに結論が出ていません。こうしてコメントをいただけるのはとても嬉しいです。どうもありがとうございました。
2017.08.15 10:48
通りすがり
ドーピングが選手の健康被害を生むからダメだという指摘に関しては、競技そのものが命懸けのものも多くありますよね。
実際、スポーツ中に死亡している例だって、いろいろなケースであります。
健康被害のレベルで国民はドーピングに反対するが、そういう命懸けのスポーツには反対しないというのはおかしいと思います。
2017.08.15 02:58
アンコウ
Sora さん、

初めまして。スポンサーとの関連によるコメントをありがとうございました。具体的にドーピングを禁止するための理由としては、それで充分なんだと思います。ルールなのだから、それを守れ。ルールを守らなければスポーツになりませんからね。何でもありの格闘技だってかみつきはなしでしょうからね。たしかに、それ以上深入りすると、どうもドツボにはまりそうです 笑)

いろんな方からご意見いただき、いろんなおもしろいイメージを聞かせてもらいました。Sora さんの「何でもあり=びっくり人間ショー」というのも、思わず大笑いしました。
2013.08.16 18:46
Sora
はじめまして。時々訪れては、楽しく読ませていただいております。

本質的なことを考えると難しくなってしまいますが、現実的に考えれば、やはりルールで禁止されているから駄目なんだと思います。では、どうしてルールで禁止されるべきなのかという問いになると思います。
ロードレースをプロスポーツとして維持していくことを考えれば、ファンやスポンサーが目を向けてくれることが大事なことだと思います。スポンサーはファンに付いてくるだろうから、要はファンとして、何でも有りが見たいか、ドーピング禁止のルールでの競技が見たいのかということになると思います。
個人的には何でも有りを見てみたいという気持ちも全くゼロではありませんが、その場合、もはや競技がロードレースである必要は無いです。
意見を広く集めてみれば、何でも有りのびっくり人間ショーを見たい人は、一定の数居ると思いますが、その人々が継続的なロードレースファンとなる可能性は低いように感じます。

長くなってしまいましたが、ロードレースをプロスポーツとして維持するためには、ファンを集め続ける必要があり、そのためにはドーピング禁止のルールを掲げて、厳守させるべきだと考えられます。裏を返せば、ファンを大きく減らし、競技のプロスポーツとしての存続を危ぶませるようなドーピングは駄目ということになるかと思います。
2013.08.16 07:46
アンコウ
Maderna さん、

こんにちは。コメントをありがとうございます。

(その2)にも書いたように、もうかれこれ15年もツュッレの言葉が刺さった刺のように、あるいは沈殿したオリのように気になってしょうがないんです。

ツュッレのインタビューは、あの人の外見も影響していたのかもしれないけど、言い逃れや自己弁護の色合いがあまり強くなく、とても誠実に答えていて、本当に自分でもその論理を信じ切っていた様子が見られました。

だから、ぼくにとって、最初にあったのは倫理的な面でドーピングを批判するのは、論拠が弱いのではないかという疑問。で、それに対する答として、そうは言ってもやはり選手の命を危険にさらすということだけでも、ドーピングを否定できると思っていたんですが、ここへきてフエンテス裁判などを見ていると、医者が徹底的に管理すれば、僕らが普通に日常飲んだり使ったりしている薬ていどの危険性になるのだとすれば、この論拠も崩れてしまうのではないか、と思ったわけです。

資金力によって不公平になるというのは、おっしゃる通りだと思いますし、僕も同じようなことをアームストロングに絡めて(もっと曖昧でしたが)書いたことがあります。プロだけ解禁にすればということに対しても、否定したことがあります。でも、心の中では今ひとつ納得し切れていないんだなぁ。。。ぼくがこれまで書いてきたドーピングのエントリーの歯切れが今ひとつ悪いのは、こういうところにあるんだろうなぁ。なんとか、ドーピングを否定できる理屈を模索しながら、思いつくたびに、それを書いてみてはきたんですがね。

「なぜ人をころしてはいけないか」は、10年以上前の夜中の討論番組から始まった奴ですね。会場の高校生だか大学生の問いかけに、いならぶ論客がみんな黙ってしまったというやつ。ただ、今回ぼくが言っているのは、ドーピング擁護の論拠を潰すアンチドーピングの理屈がほしいという気持ちからで、議論のための議論、議論を楽しむというような「確信犯的な問いかけ」というつもりはないんですよ 笑) 

Maderna さんも RadfahrersNachtliedで書かれているように、なんか、どこでも、ドーピングに関しては感情にまかせて安易に擁護したり批判したりしているような気がして、なんか違和感を感じるわけ。そして、その違和感は、やっぱりアンチドーピングのしっかりした論拠が今ひとつ確立していないからではないか、っていう思いがあるわけでもあります。

Maderna さんの最後の意見から、ちょっと思いついたことがあります。

アステカだったかマヤだったか、戦士たちは戦闘前にコカの葉っぱだったか、なにかの興奮剤を大量に与えられたとか、神風特別攻撃隊の若者たちの間ではヒロポンが使われていたという話を読んだことがあります。死ぬのを怖くなくすための興奮剤。ふと連想したのが、興奮剤の陽性で引退したアブドヤパロフの怖いもの知らずのスプリント。そう考えるとドーピングのグロテスクさがまた明確になります。
2013.08.14 11:55
Maderna
ちなみに、「ころす」が平仮名なのは、漢字で書くと「不正な投稿と判断されました」と表示され投稿できなかった為です…。
2013.08.14 02:25
Maderna
夜分に失礼致します。
スポーツの参加者には様々な階層があります。資金のあるチームの選手、資金難のチームの選手、トッププロ、最底辺のプロ、金持ちのアマチュア選手、貧乏なアマチュア選手…

なので、優秀な医師に巡り会わなければ命が危ない、という時点で、1)の安全性も、2)の平等性も担保されていません。
機材や練習環境にも境遇による差がありますが、機材が優秀でない、とか、練習時間が十分に取れない、という理由で死亡することは稀でしょう。

…というのが、「なぜ人をころしてはいけないのか?」と同種のアンコウ様の確信犯的問い掛けに対する私なりの答えです。

余談ですが、「なぜ人をころしてはいけないのか?」に対しては「自分がころされたら嫌でしょ?」の一言で済む話なのに、一時期、いい大人がこの問題について延々と議論をしていたのにはうんざりしました。自分が嫌なのだから他人も同じようにころされるのは嫌なはず、他人が嫌がることは止めましょう。という至極単純な話だと思うのですが、「日本には死刑制度がある。国家権力が悪人をころすのは良いのか?」みたいな例外的状況を前提とした反論が出てきます…。こういうのは「議論のための議論」でしかないと思うわけです。

ちなみに、ドーピング解禁となった暁には「優秀なドーピング医師」は超人的に強靭な兵士を養成したい各国の軍事部門から引く手数多になるとも予想されます。
2013.08.14 02:19
アンコウ
Naco さん、こんにちは。

ドーピングに反対する理由は記事ないに書いたように僕も同じです。また、ドーピングをする奴にたいする怒りも同様に感じています。

ただ、昔はともかく、フェラーリにせよフエンテスにしろ、「優秀な」(最高度の皮肉ですよ 笑)ドーピング専門医がいて、彼らが選手の健康をきちんと管理したら、健康被害はふせげるのではないかって言われたら、それを跳ね返せる理屈があるのかな、と思ったわけです。

ドーピングが解禁になったら、製薬会社は新薬開発に邁進するし、「優秀な」ドーピング専門医もたくさん現れ、さらに医学部にもドーピング科ができるかもしれません。で、医者のほうも売り文句が「100メートル8秒台を出した●●選手のかかりつけ医」なんてね。
2013.08.13 18:20
Naco
こんにちは。
しごく単純で単細胞の私からみると、

人間欲深いですから、禁止薬物制度がなければ、どんどん上(の薬)を目指すでしょうから、健康被害が心配です。やはり歯止めをどこかでかけなければ。
その上で、一旦禁止薬物リストができた後、それを守ろうとする選手と掟破りの選手が存在しては、それは不公平でしょう、、、
というのが「薬はだめよ」、のロジックではないでしょうか。

で、ここで敢えて言うなら、98年頃、ドーピングが当たり前だった時代は、ある意味上記の理論の後半部分は満たしていたかもしれませんね。皮肉にも。
つまり、皆やってたから不公平感は限定的(バッソンなど一部の選手は泣いたわけですが)で、むしろ公平なレースが行われていたのではと。

ところが”中途半端に”クリーンになってくると(ロードレース誕生直後にドーピングは開始になったので今更ドーピングはなくならない、というランスの持論を支持するとすれば、中途半端にクリーンになる道しか残されていないと思われ)、正義感に鈍感で貪欲な選手のみが得をするレースになりそうで、これからのレースが98年時代よりもシラけたものになりはしないか、そんなことを心配したりします。
2013.08.13 00:12
アンコウ
Kohさん、

こんにちは、もちろん選手の立場からすればルールだからというでいいのです。禁止リストに載っている以上、それを体内には絶対に入れない。これ以上ほかのことを考える必要はないと思いますよ。

ただね、わたしは選手ではないので、性格上どうも理屈っぽく考えたくなるんですね 笑)
2013.08.12 21:41
koh
確かに、なぜドーピングが駄目なのか?と言う事には、本当の正解はないのかもしれません。
ただ、私の個人的な考えとしては、ルールで決まっているから、それを守る。と言う簡単なものです。ルールがあるから、それを守る。まあ疑問を持つのはしょうがない事ですし、議論も起きるでしょうが、スポーツと言う、ゲームをやるにはルールを守るしかないんですよね。
2013.08.12 20:29

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アンコウ

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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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