佐伯一麦はこれが二冊目。
前に「ノルゲ」という題名に惹かれて図書館から借りてきたことがあった。今回は認知症になった父親のことを、父親が生きているうちに、いわば同時進行的に書こうとしたと、小説内でも語られている。
リルケの「マルテの手記」に、穏やかで人々に愛された祖父のブリッゲ老人が自らの内に秘め、育んできた横暴な「死」によって、人が変わってしまうエピソードがあった。「日ごろの生活で使いつくせなかった倨傲(きょごう)、意志、支配力の残りが、すべてその死のなかへ流れこみ」祖父は死の直前の十週間を専制君主のように振るまう。
この小説の、仙台の役所勤めだった、認知症になった「わたし」の父親も、そんなふうに人が変わった暴君ぶりを発揮する。ただ、マルテのブリッゲ老人とは違って、怒り地蔵になってしまうだけでなく、ときとして見せる赤子のような寄る辺なさが、いたたまれない思いを誘う。
しかし、小説家、とくに「私」小説家の性(さが)って辛いものがある。カフカの短編小説に「断食芸人」という、断食をしている姿を見せる芸人の話があるが、なんとなくそんなのを連想した。たとえば父の手帳をぱらぱらとめくっていた「わたし」に対して、
「そのとき、何かを察したらしい母親が、有無を言わせぬといった勢いで、私から手帳を奪い取った。小説に書かれるのではないか、と警戒している色がありありと窺える。」
むろんこれは作り話かもしれない。しかし、自分と妻はもちろんのこと、兄や姉や家族の、いわば「恥」すらもさらけ出さざるを得ない私小説家って断食芸人のように、自らの苦しみを見せ物にするような、身を削る切なさを感じさせる。ただし、「ノルゲ」もそうだったが、小説中の「わたし」と妻はきわめて癖のない中立的な好人物で、感情を爆発させることもない。それが読んでいてとても気持ちが良い理由なんだろう。
全部で450ページ弱のなかで、ちょうど300ページほどのところに、これまで認知症になった父親と介護する母親、そして自分たち夫婦との話がクロノロジカルに語られてきたのに、突然父が津波に流される夢が語られ、そのあと、唐突にこの小説執筆時の「現在」が混じる。東北大震災があったこの時点で、すでに父は亡くなって2年が経っているのである。こうして手の内を明かしてしまった上で、ここから小説内の時間は重層的になっていく。新潟へ避難したときのホテルでの経験、父がまだ若く、自分もまだ幼かった頃の記憶、認知症の父の病状の進行、小説執筆中の時間、父の葬儀の時などが入り交じる。
題名の「還れぬ家」はいろんな含意があるのだろう。認知症になった父は入院や施設に預けてもらったりして還れなくなる。一方「わたし」も親兄弟に対するわだかまりから、還りたくない家。そして、兄や、なにより姉にとっても、還れぬ家なのである。そして父の死後フクシマの放射能を避けて新潟や東京の兄の家と転々とする母親も還れぬ家になってしまった。
村上春樹も面白いし、波乱万丈のストーリーはワクワクするけれど、そしてさまざまな比喩も心地よいけれど、こういう小説は本当に捨てがたいと思う。もしかしたら、ぼくはこっちのほうが好きかもしれない。
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