ぼくの子供の時代にもいじめはあった。ただ、いじめられっ子は「自殺」という、ある意味最終兵器を知らなかったから、いまみたいな問題にはならなかった(当時のいじめがいまほどひどくなかったというのはどうだろうね?自殺した奴は当時はいなかったけど、それは単に自殺という対抗手段を知らなかっただけじゃないかな?)。20代前半であった小学校時代のクラス会で、当時男子によくいじめられていた女の子が、自分はあのころ男の子たちにずいぶんいじめられたけど、でも縁あって去年結婚しました、って発言したとき、ぼくは積極的にいじめに加わったわけではなかったけど、あの当時の自分が恥ずかしい思いがした。
いじめは相手が凹んだり怒ったり泣いたりしなかったら、つまらないんだろう。相手が強くて、みんなで言ったところでへのカッパという奴なら、みんないじめないんだよ。だけど、自分よりも弱い奴はみんなでよってたかっていじめることができる。いじめられる奴にも非難されるべき点(たとえば不正受給とか)があれば、ますますこころおきなくいじめることができる。
残念ながら、いまの日本は社会全体が様々な分野でいじめを行っている。権力を持つものにたいしていじめは効果がない。しかし少数者にたいしてなら、いじめがいがある。大人が一般社会で弱い者いじめを行っているんだから、学校でいじめがなくなるはずはないよ。
いずれにしても、いじめの構造は、いじめられているものが自分よりもっと弱いものに向けてさらにいじめを行うっていう循環だとは、よく言われることだ。いまの日本を見ると、このあまりに単純で繰り返し言われてきた図式がぴったり当てはまると思わないだろうか?
でも、本当はこういう形にしてはいけないんだよね。弱いものがもっと弱いものをいじめてどうするんだ、って思うよ。というわけで、拙ブログのエピグラムをしつこくコピペしておきましょう。
社会は強い者がより強くなるように、富める者がより富むように、力をかざす者がより強い力をかざすことができるように、そのようなことのためにあるのではありません。弱い人間を排除する社会は、私たちに必要な社会ではありません。弱い人間のためにこそ社会はあります。私たちは、そうでないときにはそうであるように社会を変えてゆかなければなりません。(八尋 光秀)
当たり前のことだよね。弱い者にとって住みやすい社会は、誰にとっても住みやすい社会のはずなんだから。
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