この人の本を最初に読んだのは「日本語に主語はいらない」だった。
日本語と英語、フランス語を比べながら、日本語には主語はないこと(主題はある)、日本語の基本文型は、「赤ちゃんだ」(名詞文)、「笑ったよ」(動詞文)、「かわいい」(形容詞文)の3種類であると書いてあるのを読んだときにはびっくりするとともに感心したものだった。
続く二冊でも、日本人は「あ、富士山が見える」と言うところを西洋人は「I see Mt.Fuji!」というとか、川端康成の「雪国」の出だしが英訳では the train が主語になっているということなど(知っている人なら常識なんだろうけど)、それまであまり考えたこともなかったおもしろい話が次々に出てくるし、主語が絶対的に君臨する西洋言語をクリスマスツリー型、主語不要で、上の三基本文型にさまざまな補語がつく「述語一本立て」の日本語を盆栽型とするなど、専門家以外(もちろん私もそう)にも、実におもしろく読めた。自然中心の日本語に対して、主語があることから発想が人間中心になりがちで、さらにそれが進んでSVOの他動詞文型に代表されるように、主語が目的語を支配する、つまり主語が状況から離れて高みから見下ろす神の視点を取る傾向が強いことなど、いちいち納得がいく。人によっては「だから?」とか、牽強付会とか言う人もいるのかもしれないが、ぼくはおもしろいと思う。
日本語の「ある」(自然)と「する」(人為)をもとにした受け身、自動詞、他動詞、使役の図式化など、これまでの金谷の本でおなじみの話がかいつまんで説明されていて、金谷ファンなら、後追いチェックしながら、読み進めることができるはず。
前書の「英語にも主語はなかった」で、これまで見られなかった政治的・社会的発言に驚くとともに、その発言に深く同意した。これらの本を愛読(事実ぼくは何度も繰り返し読んでいる)する理由は、著者の金谷が、日本語(それを使う日本人)の視点が地上の、虫の視点であって、それに対して英語など西洋の言語の視点は空からの、神の視点であると強調する点にあるのだ。
以前からぼくはこのブログで
石原慎太郎 の批判を何度か書いている。そして以前
こう書いた 。自分の書いた文で恐縮だが、下に引用する。
<ぼくは日本人の先祖って、戦争にあけくれる大陸での生活を嫌って逃げてきた人たちの子孫なんじゃないかと思うんですよね。いや、正確には知りませんよ、でも、日本人のDNAには
石原慎太郎 的なものではなく、もっと平和共存思考的なものがあるのではないかと信じたい。
石原慎太郎 の土俵に上がって、あえて誤解を恐れず言うなら、そうした
石原慎太郎 的なもの、ネトウヨ的なものこそ、日本人にとって異質なものなのではないだろうか。>
まさに、金谷が説く日本語という言葉の構造が、すでにして日本人の本来の資質、日本人のDNAにあるものを示しているのである。それによれば、大所高所から見下ろし、攻撃的かつ排他的な言葉を吐くのは、日本語という言葉が本来持つ特性に反することなのである。
さらに金谷はあまり触れないが、ぼくなりに付け加えると、これはキリスト教の発想なんだろうと思う。人間のためにある自然、つまり自然を開発するのは人間の権利であるというキリスト教的発想(たとえば肖像画の背景にある風景の西洋画と、自然の中に人がちいさく描かれる水墨画のちがい)が、主語の重要な言語につながるのかもしれないと思った。
また、この日本語は亡びないでは
水村美苗 の「日本語が亡びるとき」に対する反論が含まれている。ぼくは水村の本を読んだとき、感動するとともに、その論理展開のすごさに舌を巻いたが、同時になにか言葉にできない違和感を感じた。今回の金谷の反論が水村本に対し、マトを得ているかどうかはわからない。水村の、英語が普遍語になった21世紀という言い方にたいし、金谷は、英語が普遍語としてふさわしいのか、それで良いのかと問うのだが、水村が主張しているのはいい悪いではなく、そうなってしまって、それを抑えることは不可能だという前提の上で語っているのだろうと思う。だから、金谷の反論はむしろ水村の本の「題名」に対する反論に終わっているような気もする。だが、ひとつだけ、ぼくが水村本に違和感を感じた理由はわかった。言葉や文化は選ばれた「叡智を求める人々」だけが作ってきたわけではないのだ、ということである。ぼくが違和感を感じたのは、選ばれた人たちが文化を創ってきたというような水村の古風な歴史観なのである。
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