
1990年と言ったら大昔ですかね? 宇都宮で世界選手権があった年。そして市川選手がジロ・デ・イタリアに日本人として初参戦し、一時期は総合30位代、最終的には50位で完走した年です。
市川というと、スカパーの解説で辛辣なおじさんというイメージがあるかもしれないけど、ヨーロッパのレースで6勝って言うのは現時点では日本人では他に誰もいません。現時点では最初にして最高の日本人プロロードレーサーと言っていいでしょう。
90年、当時は情報がまったく入ってこなくて、一緒に練習していたサイスポ関係者の知り合いなどから途中の情報を聞いたものでした。市川はいま総合38位だよ、と言われて吃驚した記憶があります。結局一つのステージで下痢に苦しんでタイムアウト寸前でゴールして、一気に順位を下げちゃったんですが、それでも50位って、やっぱすごくない?
この年のジロはプロローグでブーニョが優勝してマリア・ローザを着たら、もうそのまま最後まで着通したパーフェクト優勝だったんですが、それよりもやっぱり市川ですね。
というわけで、今回は知り合いから送られた当時の新聞のコピーをご紹介しましょう。市川がジロに参加している最中のスイスの新聞です。冒頭、黒澤明の新作「夢」の話が出てきて、時代を感じさせます。
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市川雅敏は日本のパイオニア
市川の「夢」はすでに実現
「夢」は日本の映画監督黒沢明の最新作で、巨匠はこの映画で自分の最も大切な夢8編をフィルムに収め、いわば「現実化」している。しかし、彼より50歳も若い同国人の市川雅敏は巨匠に少しだけ先行している。つまり、彼はちょうど10年で、プロになるという夢を実現し、ジロに参戦した最初の日本人になった。
まず、深いお辞儀で特筆されるこの国日本ではロード競技は日陰者だ。「毎年わたしの国ではだいたい7つのレースが行われます」と市川は説明してくれた、「そしてその水準はそれ相応に低レベルです。」
競輪、ノーサンキュー
しかし、ハードな競輪競技がある程度のポピュラリティを得ている国で、どうして16歳の市川はロード競技に打ち込むことになったのだろう?「テレビのスポーツ放送でツール・ド・フランスが扱われたとき、初めてロードレースの映像を見ました」とスイスのフランス語圏モティエに住む市川は言う、「そのとき、いつか自転車ロード競技のプロになると決めたのです。」
レース用自転車とはすぐに触れることになった。大学に入学して自転車チームに加わったのである。日本では中野浩一がスプリントで10回世界チャンピオンになっているにも関わらず、彼はトラックにほとんど関心を持たなかった。「トラック競技は好きではありません」と市川ははっきり言っている。
アルテンラインで世界戦が行われたとき、エリートアマチュア市川は22歳で観客席にいた。そのとき、彼は故国のレースでも優勝したことがあり、1980年には日本選手権で3位になったことがあった。このときアルテンラインで接触したコネクションを、彼は後にうまく利用し、ヨーロッパにとどまる。最初はイタリアで、次いでスイスとドイツで運を求め、当時のマヴィックチームの監督ジャン=ジャック・ループと接触する。
日本の最初の自転車プロ
1987年、つまりツール・ド・フランスの放送からちょうど10年で、市川はクロード・クリケリオンをエースとするベルギーのヒタチチームと契約する。日本人最初のロード競技のプロになった。
このときから彼は故国では少なくともパイオニアの役割を担うことになった。しかし、ポピュラリティという点では以前と変わらないままだった。日本人は野球とゴルフにしか興味がないのだ。
3年後、小柄だが強靱な市川はさらに新たなものを求めていく。彼は二つのプロとしての勝利を収めた。まずシェレンベルク一周と少し後ではシエール~ロイエ山岳レースだ。この成果が彼の故国での最初の成果をもたらした。つまり、この春、イタリアで日本のプロチームが発足しそうになったのだ。しかし、残念ながら結果的に、ライセンスの問題で潰えてしまった。
フランク・チームではノープロブレム
彼の二つの勝利と長年にわたるコネクションのおかげで、この山岳スペシャリストは、今シーズンフランク・モンテ・タマロチームで走ることになった。「確かに、『マサ』獲得の理由はスポンサーの問題だ」とチーム監督のロベルト・タールマンは言う、「しかし、彼の最近のシーズンの結果が決定要素の一番だ。ツール・ド・ロマンディのクイーンステージで強かったことがジロのメンバーに選んだ理由だ。」
市川自身は自らのジロ参加にも浮き足立つところはない。「ここで失う物は何もないし、きついプロフィールはむしろ自分に向いていると思う。」少なくともヴェスヴィオ山を前にして、故国の富士山を前にしたときほどの脅威を感じなかったようだ。つまり、市川はこのステージで優勝したエドゥアルト・チョーザスにたいして2分しか遅れなかったのである。そして「大物選手」のうちの何人もが彼より後ろでゴールしているのである。
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この新聞の日付は5月21日月曜日。最後に出てくるヴェスヴィオ山をゴールとする上りゴールのステージの翌日です。ですから、この記事はその結果を踏まえてすぐに出たものです。このステージは第2ステージで、市川はエースのダニエル・シュタイガーをアシストして20位前後でゴールしているようです。シュタイガーはこのステージで6位でした。その後このエースがリタイアして、市川がフランク・チームのエースに昇格したのでした。
また、途中に出てくるアルテンラインの世界選手権は、レモンが独走ぶっちぎりで優勝した83年のものですね。アルジェンティンとスペイン人と三人で逃げたもんだから、イタリアチームが完全に集団コントロールしてしまって、そしたらなんとアルジェンティンがパンクで遅れて、慌てて追ったときにはもう時既に遅し。スペイン人も最後の登りで遅れてレモンが2位に1分ぐらい差をつけたんじゃなかったかと思います。
この記事の最初の写真も、でっかいメーターがついていて、ヘッドもいまとは違うし、何よりブランカーレのカスクですよ。でもちょっとサイズ的に大きすぎない?
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