太平洋戦争の戦況の変化とともに、徐々に
特攻作戦へと向かう日本軍を時系列に追い、
特攻隊の若者たちの、自身の死の意義付けのいくつかの考え方を紹介しながら、このような太平洋戦争へ向かわざるを得なかった日本の軍隊組織と政治との関わりを明治の最初から解説し、
特攻隊の若者たちの死を、現在の我々がどう考えるべきかを語る。
特攻作戦の源流を考えることから始まるが、いくつかの帰還の望みがなくなった者が自爆体当たり攻撃に出たケース、船を守らんとして我が身を犠牲に、迫り来る敵魚雷に体当たりしたケースなど、自己犠牲は、確かに本書に言われるように、鉄腕アトムや宇宙戦艦ヤマトもそうだ。よく考えてみれば、宮沢賢治のグスコーブドリだってそうだった。ただし後の特攻作戦の命令による、あるいは拒否できない空気による自己犠牲とは全く違うことは言うまでもない。
いつだかTVで西洋人にアトムの最終回を見てもらって感想を聞くという番組があった。西洋人は一様に納得できない表情で、終わり方としては変だし、感動できないと感想を述べていた。その時はへぇっと驚いた。その意味ではぼくも日本人なのだろう。
海軍の特攻作戦が、陸軍の玉砕戦のプレッシャーによるというのは虚を突かれた。それ以外にもこの本に書かれているのは知らないことばかりだった。
人間魚雷やその他の特攻兵器を発案し、開発するとか、あるいは陸軍の特攻作戦を協議しあう秘密会議は、ナチス・ドイツが絶滅収容所でどうやれば一番確実に大量の人間を殺せるかを考えたり、ヴァンゼー会議と呼ばれるユダヤ人抹殺計画を協議した会議の話を思い出させた。なんという人間の最低最悪にしてグロテスクな想像力か。
しかし、知れば知るほど、ほとほとあきれかえる話ばかりだった。
それは、特攻隊員たちを送り出した者たちの無責任さに、である。次々に現れる特攻作戦を推進した責任者たちが、戦後に語ったまるで他人事のような文言には、怒りを通り越して、あきれるしかない。特攻出撃のたびに、「オレも最後の一機であとに続く」と叫びながら、敗戦時に実際にそれを実行した海軍の特攻関係幹部は二人だけ(しかもそのうち一人は若い部下たち20人以上を道連れ)。そして戦後になって特攻は志願した者たちが(いうなれば、勝手に)行ったのだと主張し、自分の責任をほっかぶり。こうした幹部連中は自らは志願せず、後に続くこともせず、そして戦後天寿を全うしていく。
たとえば、特攻隊を送り出す作戦主任参謀の
中島正が戦後20年もたってから書いた本の中で、彼はこう書く。
特攻隊員は「一部には自ら荒神を以て任じ、如何にも英雄めいた不遜な態度を取ったり、蛮勇を奮ったりする者が現れたのは遺憾である。」
まるで他人事である。自分の責任はつゆほども感じていない。自分は送り出すだけ送り出し、無駄死にとわかりきっていながら死なねばならぬ若者が捨て鉢になったからと言ってそれを「遺憾である」と言う。これは、責任者が言う台詞なのか!!ここまで自己を省みることのない、自分の責任を感じることのない物言いをできるものなのか?あきれかえる。しかもこんな話が山のように出てくる。
<戦争中、軍高官、幕僚の多くは幾多の将兵に武士道と大和魂を説き、玉砕と特攻を強いながら、自らは戦後、瓦全の途を選んだのである。>(p.214)
以前にも書いたことがある源田実は、戦争末期に特攻機を出さねばならぬことに心を痛める参謀に対してこう言い捨てる。
「貴様、そんな気の弱いことでどうするか。囲碁にも捨て石、将棋にも捨て駒という手がある。そんなことで貴様あ、一人前の戦争屋になれるか」
そして彼は戦後戦争屋を廃業して議員になった。特攻との関わりを尋ねられると、嘘を並べて無関係を強調し続けた。
ぼくはこうした連中が終戦時にみな腹を切って自決すべきだったとは思っていない。しかし、ここまで自覚のない無責任さにはあきれるしかない。
読みながら、なんども今の日本の姿を連想した。
つまり、「
自己責任」と言いつのった権力者たちが責任を取らぬ現代社会のことである。21世紀に入って、例のイラク人質事件以来、しばしば耳にした「
自己責任」という言葉のうさんくささ、同時にその頃から頻繁に人々が口にするようになった国益という言葉のうさんくささ(国益とは誰にとっての「益」なのか?)。同質のことが、この65年以上前に繰り返されていたのである。
ぼくはこの著者の主張する、日本は能動的な平和国家をめざすべきだ、各地の紛争解決のためには自衛隊も派遣すべきだ、そうやって積極的に平和を求める国家になるべきだという提言に賛成しない。また、日本人の民族精神を構築することが倫理意識の穴をふさぐというような考え方にも疑問を感じる。だが、ここに描かれた責任者たちに対する怒りと、散華した(あえてこの言葉を僕も使う)特攻隊員たちへの敬意には深く同意する。
この敬意は、戦後になって自分の責任を曖昧にするために、特攻隊で死んだ若者たちを美化し、英雄化した連中の狙う方向とはまったく違う方向を向いていることは、しっかり意識していなければならない。
特攻隊員たちを美化する人がどのような立ち位置にいるのか、「
自己責任」を言いつのる人々がどのような立ち位置にいるのか、僕らはまずそれをよく考えてみるべきである。もし、自分が他人に対して「
自己責任」という言葉をなんの躊躇もなく主張できるときには、自分の立ち位置をよく考えてみるべきである。単なる憂さ晴らし、いじめ、排除の思想、感情的な不快、優越意識、差別感情、自分が強者になったという錯覚、そんなもので僕らは他人に対して「
自己責任」という言葉を使っているのではないか、そう自分自身に問うてみるべきである。
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