全く赤の他人だったのに、たまたま時間的場所的に重なって、一緒に生活を始める。生まれも育ちも全く違い、なのに時空をともにした男と女なんて無数にいるはずなのに、たまたまその中のひとりと一緒になり、生活を共に始める。これが夫婦ってわけだけど、よーく考えてみれば、こんなん、お互いに理解し合えないのは当たり前だよね。
Kとは奥さんの頭文字だ。詩人三木卓と詩人福井桂子の夫婦。でも育ちが違いすぎるわけ。一緒に暮らし始めてすぐに三木卓がKに風呂を沸かしてと頼んだら、そんなことをしたこともない北東北の大店のお嬢様のKはプイといなくなってしまう。給料を渡したら全額自分の服を買ってしまって、「あれ、わたしに下さったんじゃなかったんですか」とのたまう。働いている出版者に遅刻ばかりするので、起こそうと引っ張ると「片方の手でふとんをしっかりつかんでいるので、ふとんごとずるずるとこっちへ近づいてくる」ありさま。
それでも昭和30年代の生活の様子は、貧しいけど楽しいことがたくさんあったというのがよくわかる。90リットルの冷蔵庫やシャボン玉ホリデー、東映フライヤーズや後楽園のボクシング、初めて食べるピザや東京オリンピック。まさに「幸せの総量は時代によってそう変わるものではない」っていうホイジンガの名台詞を思い出させる。
でも、Kもまた三木と同じく詩人である。ただでさえ理解しあうのが難しい夫婦が、芸術家同士って、ある意味どちらも自分のやりたいことがあるわけだし、相手の作品も気になるだろうから大変だろうね。さらに作品をどう批評するかだって大変そうだ。へたに善意から批評すると自尊心を傷つけることになる。だから「彼女の詩に対して不誠実のそしりをまぬかれないが、ぼくは共同生活者としての平和の方を大事に守るべきだ」と考え、批評は極力避けるようになる。Kのほうもわざと大学院へ行きたいと言い、三木が賛成すると、やっぱりわたしに詩を書かせたくないのだ、だからそんなことを言うのだと、むちゃくちゃな論理展開。こりゃあ、夫としちゃあ困るよね。
しまいには、「あなた、ここじゃあ、おちついて仕事できないでしょう」と言いだし、勝手に別のアパートを借りてくる。さらに「あなたに家へ帰ってきてほしくないの」と言い出す。男としては離婚の要求かと思いたくなるが、どうもそうではないらしい。なのに、自分が病気になると付き添うことを強要する。こう書くと随分身勝手な女だということになりそうだけど、むろんこれは男の三木の目からみたものだから、Kの側からすれば別の言い分があるだろうし、むろんそんなことは分かっているから、三木の書きぶりはやさしく穏やかで、時としてユーモラスなんだろう。
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