なんか昭和的な言い方です。でも、
この題名は以前にも使っているので、最後の「!」マークを二つつけておきました 笑)
要するに、拙ブログでは一貫して同じことを書いてきている。最近も
大坂なおみの「差別主義者ではないというだけでは不十分だ。反差別主義者でなければならない」という発言や、
山本太郎が大西つねき発言に対して行った記者会見のことでも書いた。
つまり、誰のうちにも差別意識はある。普段から結構意識的に差別を批判している人でも、ひょんな拍子に自分のうちに隠れていた差別意識がポロっと出てしまうことがあるだろう。だからそれに自覚的じゃないといけないんだと思う。
そうした自分のなかにある差別意識を意図的に解放して、辛口とか激辛とか言いながら、あたかもみんなが感じている正論を語っているのだ、というような顔をして語るというのは、自分の中にある「悪」を解放することだ。で、「悪」を解放するってことは、自分の中にあった「悪」に、逆に取り込まれてしまうことになるんだと思う。なんか抹香臭い、エセ宗教じみた言い方で、自分でも気恥ずかしいんだけど。
今話題のユーチューバー、僕は知らない人だったけど、あんなふうに堂々と確信的に自らが抱え込んでいた差別意識を胸を張って表明するって、なんか時代が、そして社会がものすごく病んでいるんだな、と昭和に青春時代を送った人間としては感じてしまう。ああいうことをみんなの前で言ってしまうっていうのは、言った本人もここまで言っても賛同者はいると踏んだから言ったわけだろう。昭和の時代にはこんなことを言える社会の空気はなかった。
なんとなく、こうしたうちなる差別意識の開放を許す社会の空気は、20世紀末からの新自由主義的傾向や歴史修正主義(=歴史改竄主義)的傾向が影響しているんだろうと思う。
現在の政権を積極的に支持したり、維新を応援する心情も、こうした社会の雰囲気が大きな影響を与えているんだろう。そこに見え隠れするのは、いじめや差別意識、「自己責任」という言葉(これに納得するとなにか一本筋が通ったような気がするから始末が悪い)や「ざまあみろ」といった下等な感情だと思う。つまりこうした「悪」を解放(=取り込まれる)することで現在の自民や維新を応援する心情が出来上がるのだと、僕には思えてならない。
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