
年末にこんな本を読んでいた。
神奈川新聞取材班と朝日新聞取材班のものだけど、裁判経過や面会での話し合いなど重複しているところも多いし、神奈川新聞の方が問題の深め方が上だと思うのでこちらがお勧め。こっちを読んだら朝日の方はスルーしてもいいかも。
しかし強烈な既視感に襲われた。
● 物事を単純化してわかった気になり、これまで人々が積み上げてきたものを一言でひっくり返すような謀略史観的な妄想に取り憑かれる。
● 何とかの一つ覚えのように、同じことを言い続け、全能感に浸って、反論されてもそれに対して考えを深めて再反論しようとはしない。
● 自分の考えを否定する者は敵なのだ。だから議論にならない。
拙ブログにいまだに時々コメントしてくるネトウヨ諸氏にも見られる特徴だ。だから僕は以前にも書いたけど、「蟲」に取り憑かれた彼らと論争しようとしても不毛で、必要なのは「お祓い」だと思うのだ。
特に植松死刑囚が崇拝する人物の名前に安倍晋三、トランプ、プーチン、高須克弥医院長の名前がずらずらと出てくると、もうこちらもわかった気になって、ああ、なるほど、と思えてしまう。つまりネトウヨ的思考回路なのだ。ただ、彼の場合、憎悪の対象が韓国や中国ではなく障害者だった。
ただ、それでも、その、彼なりの信念に基づいて殺人を実行できてしまうというところに異常性を感じるわけだけど。つまり、一般のネトウヨにできるのはツルんで警官に守られながらデモ行進して罵声を浴びせるところまでで、実際に殺人事件を起こした話は聞かない。だからそういう点で特異な事件だったと思う。
でも、これは現代の社会が作り出したものなんだろう。
「社会の役に立たない重度障害者を支える仕事は、誰のためにもなっていない。だから自分は社会にとって役に立たない人間だった。事件を起こして、やっと役に立てる存在になれたんです」(神奈川新聞版 p.105)
彼が記者に向かって拘置所で語った言葉だ。社会にとって役に立つか立たないか。しかし役に立つってなんだ? 誰だってそのぐらいのツッコミ入れられるだろう。
*
少し前に「シンドラーのリスト」という映画をNHKのBSでやっていた。名高いこの映画は公開当時見てて、それなりに衝撃的・感動的だった。でも、今回見直して、後半のシンドラーがどんどん良い人になっていくのに違和感を感じ、所々にハッとするようなシーン(例えば有名な赤いコートのパートカラーや、地獄落ちを覚悟した収容所長アーモン・ゲートの造形)があるのは認めながらも、ラストの、「もっとたくさん救えたのに」という台詞でしらけた。「浅い」という印象を持った。
それはともかく、今回見てて一番心に残ったのは、ユダヤ人たちが集められ、戦争のために役に立つ特殊技能がある者はブルーカードを得られて、収容所送りを逃れることができるというシーン。一人の男がブルーカードを拒否されて、「なんで私が役に立たないなんて決め付けるんだ、歴史と文学の教師だぞ、それが役に立たないだと?」と言うのだった。
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まるで今の日本の状況だ。人文科学系の法学や歴史学の立派な業績のある学者たちを学術会議から締め出した菅のやり口を連想したのはもちろんだが、同時に役に立つって一体どう言うことなんだろう?と思う。ましてや、役に立たないなら排除してしまえという短絡。
「できる、できない」で人を評価することにどれほどの意味があるのか。何かができないとされることで自己肯定感を持てずに苦しむ人を増やしてしまっていないか。逆に、何かができないとされる人を排除することをなんとも思わない人が出てきていないか。その一人に見える植松の姿からは、弱い立場の人を貶めて自分の存在を保とうとする自己肯定感の低さを感じざるを得なかった。(同上 p.305)
そしてもちろん
拙ブログでも前々から言ってきたように、役に立たない(と彼が考えた)ものを排除した植松死刑囚を役に立たないと我々が断を下して排除して良いのか? 排除すべき命が、本当にあるのか? 僕が死刑制度に反対する理由はいろいろあるけど、結局ここに行き着く。
これは当然出生前診断の是非につながるとともに、できるできないの能力主義が優生思想の土台にあるとするなら、現代の社会の問題でもあるし、「個人の能力をひたすら伸ばす」(p.361)ことに血道を上げている現代の教育の問題にもつながる。神奈川新聞版はそこまで深めている。
個人的には安易に答えを出す必要なんかないと思うけど(だいたい簡単に答えを出したいと考える風潮こそ危うい)、こうして芋づる式に繋がってきた問題を考えてみることは大切だと思う。
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