
オットー・ヴァイトはナチスの時代のベルリンで、障害のあるユダヤ人たちをブラシやホウキを作る自分の盲人作業所に雇い、ゲシュタポとやりあい、ユダヤ人たちを無名の協力者たちと共に匿い続けた盲人である。
オットー・ヴァイトの名前は拙ブログでも出したことがある(これは5年前に書いたことで、当時は山本太郎の主張など知らなかったが、彼が言っていることと同じことを書いているのは、我ながら自慢したい)。
この本はヴァイトの生涯を追いながら当時のナチス期のユダヤ人たちや障害者の状況も詳しく描かれ、圧倒的な面白さだった。一般にナチスと障害者と言えば、
拙ブログでも何度か書いた T4 作戦による重度障害者の継続的な虐殺が思い浮かぶが、軽度や盲・ろうの障害者たちはどのように生活していたのかは、考えたことがなかった。
驚いたことに、ナチスは多数の重度障害者を殺害する一方で、国家の労働力として活用できると考えた障害児たちに対しては、「就学義務法」を制定して彼らに就学の機会を与えたのである。1936年に「ヒトラー・ユーゲント法」によって青少年全員がユーゲントに加入しなければならなくなったときにも、それより前にすでに障害児たちのヒトラー・ユーゲントのようなものが存在していて、盲学校の生徒たちがハイル・ヒトラーの手を挙げている写真も掲載されている。ことほど隅々に至るまでナチスのプロパガンダが浸透し、国民たちがみんなナチスを支持していたわけだ。
一方でユダヤ人たちは海外へ移住しようとしても、高齢や障害が移住先から入国を拒否される理由になった。身内に障害者や高齢者がいるユダヤ人家庭に選択肢は二つ。移住可能なものだけが国外に逃れるか、家族みんなでドイツにとどまるかだった。映画「ソフィーの選択」みたいな選択はそこかしこで行われていたわけだ。そして1942年の
「ヴァンゼー秘密会議」後は出国など論外、見つかればそのまま収容所へ送られるようになっていく。
そんな中で盲人ヴァイトは多くの無名の協力者たちと共に多くのユダヤ人たちを助け匿う。その手口は賄賂だった。そして隠れたユダヤ人たちのために闇市場で仕入れたものを融通する。しかしゲシュタポの一斉検挙や、密告、ナチスの手先となったユダヤ人の「捕まえ屋」によって、雇っていたユダヤ人たちは次々と捕まり収容所へ送られ、多くがそこで殺害される。
無名の協力者たちが面白い。ナチスに反抗的な警官たちが集められた第16管区警察署の無名の警官たち、牧師、医者、工場主、クリーニング店主、そして何より強烈な印象を与えるのが娼婦のポルシュッツだろう。それ以外にも多数の協力者がいた。
「ヴァイトのように今日までその名を知られている「英雄」でなくとも、当時のドイツには、ユダヤ人に対しそれぞれの立場でささやかな善意を示そうとした人々がいた」(p.131)し、「密告が奨励される当時のドイツでは、ヴァイトのような救援者の行動を口外せず、「見てみぬふり」をしてくれるだけでも立派な善意の表現だった」(p.139)のである。
シンドラーのリストが映画になり、ドイツ国内にもユダヤ人を積極的に助けようとした人たちがいたことが知られるようになり、おかげでこのヴァイトもベルリンのシンドラーと呼ばれているそうだ。しかし、自らも障害者だったヴァイトの方がシンドラーよりもずっと感動的だろう。それにこの本に描かれているヴァイトの姿の方がずっと深みのある映画が作れそうだ。ユダヤ人を単なる被害者にしているのではなく、「捕まえ屋」なんていうナチの手先も出てくるし、その「捕まえ屋」にも逃げ切る奴もいれば、お役御免で収容所へ送られる奴もいる。
上に書いた娼婦のポルシュッツのインパクトは大きい。戦後になっても、娼婦ゆえに不道徳な女とみなされた彼女は1977年に亡くなるが、写真は一枚も残っておらず、娼婦の彼女がユダヤ人を匿い続けたのはなぜかはわからない。しかも彼女は闇市での取引きで逮捕され、また厳しい「尋問を受けても一切口を破ることはなかった」(p.222) のである。彼女を「ナチスに抗った娼婦」という題名で本を書く人が出てくることを祈る。
ヴァイトはドイツ敗戦後もユダヤ人のための老人ホームと孤児院の運営に尽力した。だが、戦後のドイツでは東西どちらにおいても、ユダヤ人救援者たちに関心が湧くことはなかった。これは拙ブログで映画を紹介した、
ヒトラーを暗殺しようとしたエルザーもそうだった。また海外でも悪の帝国にユダヤ人を救おうとした人たちがいたことは都合が悪かった。結局関係者がほとんどみんな死んでしまった今になってようやく、顕彰のためのプレートや、殺されたユダヤ人たちの名前の刻まれた「つまずきの石」が道に埋め込まれるようになったというわけだ。
不思議なことだが、こうした「沈黙の勇者」たちは戦後になっても自分たちが行ったことを声高に語ることはなかった。自分はユダヤ人を守ったのだと主張する連中は、その多くがナチスの主張に唯々諾々と従った連中たちだった(
アウシュヴィッツでユダヤ人の生死の選別を行ったメンゲレは、選別を行ったことによって死ぬべきユダヤ人を救ったのだと言い放った)。
彼らはなぜ自らの命すら危険にさらしてまで、ユダヤ人を助けたのだろう? その理由は色々あるだろうけど、この本の最後の方にある話は、ただ救援者たちを「正義」にしてしまう(つまりレッテルを張ってしまう)のではなく、人として生きるということはどういうことなのかを考えさせてくれる一助になると思う。
「ヴァイトにとってもユダヤ人たちは単なる救援対象ではなかった。自分たちを心からしたい、信頼を寄せるユダヤ人たちの存在は、障害者として社会の中で「弱者」の位置に追いやられてきた彼に、人としての誇りを与えてくれるものだったろう。それは娼婦として蔑まれてきたポルシュッツにとっても同様だった。
ヴァイトたちはユダヤ人に多くのものを与えたが、ユダヤ人たちもまた、ヴァイトたち救援者に多くのものを与えてくれたのである。」(p.252)
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