裁判は終わり死刑の判決がくだって、世間はこの事件のことを済んだこととして忘れつつある。
この本を読みながら、
少し前に山本太郎が語ったこの事件の分析のことをずっと思い出していた。「役に立っていることを社会に示したいから、役に立たないと思い込んだ障害者を殺した」というやつだ。著者の雨宮処凛は山本太郎の盟友であるから、当然こうした意見交換はしていたんだろうと思うとともに、ひょっとしてこうした問題についての山本太郎のブレーンが雨宮処凛なのかもしれないと妄想したりした。
事件当初、とうとうと自説を述べ続ける犯人にナチスの優生思想の再来かと思わされたこの事件。結局のところ「優生思想でもなんでもない。単純な嫉妬」「社会的に何もできない者(=障害者)が、優遇されてノウノウと生きているのに対するやっかみ」に過ぎなかったという最首悟の言葉が一番ピンとくる動機のように思える。
最後の雨宮処凛と渡辺一史の対談の中で、渡辺が言うことが、僕らも、そして何よりマスコミも、もっとしっかりと意識すべきポイントだと思う。つまり渡辺はこう言っている。少し長くなるが、書き写し、ポイントを箇条書きにしてアンダーラインを引いておく。
「この事件が報じられるたびに、植松被告の主張も繰り返し報じられるわけですが、彼の主張は、その前提からして間違っていることを指摘する人があまりいない。(中略)植松被告は「意思疎通の取れない障害者は安楽死させるべきだ」という主張から事件を起こしましたが、(中略)意思疎通の取れない障害者」を一方的に安楽死させるなどということは、安楽死が合法化された国であっても不可能です。(中略)植松被告の考えに同調して、「日本でも安楽死を合法化すべきだ」などという人がいますが、安楽死という言葉の正確な意味を知った上でそう言っているのか、そこをまずしっかり確認しなくてはいけない。」
本人の同意がない「安楽死」などない。それは虐殺というのだ。「それともう一つ、障害者を安楽死させるべき理由として、「障害者にかかるお金は無駄だから」とか「それが財政難の元凶だ」などと植松被告は言っていますが、これも現実を見ると全く違います。日本の年間の障害福祉予算は、国の一般会計のたかだか1%台ぐらいで、さほど大きな額ではないです。国際比較をしても、日本の障害者関係の公的支出(対GDP比)は、OECD諸国の中で極めて低い水準にあることは専門家の間では常識なんです。」
障害者福祉の国の予算は財政難の元凶になるはずがないぐらい低い。「さらにいうと、障害福祉予算というのは、別に障害者が飲み食いして懐に入れて浪費しているわけでは全然なくて、その大部分は健常者(介護者)の給料になっているわけですからね。」
しかも予算のほとんどはは障害者を介護する健常者の給料。「そして、もらった給料の中から所得税を払い、住民税を払い、社会保険料を払い、日々の消費を行い、人によっては結婚して家庭を作り、その地域での暮らしを支えるお金になっているわけです。」
山本太郎がよく言う「誰かの借金は誰かの貯蓄・資産になる」を連想する。「そうして、そうやって作られたケアの仕組みや福祉制度というのは、自分や自分の家族が困ったときにもお世話になれるシステムです。障害のある人たちがいるおかげで、そうしたシステムが発達してきたことを考えると、逆に障害者の存在が、社会を助けてくれているとも言えるんです。」
情けは人の為ならず、自分のためなんだよ、という話だ。当たり前の話だろう。「メディアもあの事件を報じると同時に、植松被告の考え方は根本から間違っていることをしっかり発信することが大切だと思います。」(以上全て p.211ー3)
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