命の選別を政治が行うと発言した大西つねき発言と彼の除名に関する山本太郎の会見を聞いた。途中でこんなことを言っていた。
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この問題をこの人はそんなことを言う人じゃないよということで片付けないでいただきたい。実際にそう言ってます。それを見つめることが必要。大西さんにも多くのファンの方々がいらっしゃいますけれども、ぜひこの問題と向き合っていただきたい。大西つねきの中にあったものはおそらく山本太郎の中にもあるかもしれない。だからそれを自制しながら、そうしちゃいけないっていうことを考えていかなきゃならない。誰の心の中にもある社会的な問題なんだと、大西つねきさんを入り口に、(この)社会の問題というものにもう一度みんなが向き合うそういう機会にしていただければ、というふうに思います。何よりもこの社会的な問題に対して、私たちれいわ新選組の中にもそれが存在していた。そしてれいわ新選組の中にも存在していたというそのものが、許されないものが、ひょっとしたら、私、山本太郎の中にもあるかもしれない。そういった緊張感の中でしっかりと、弱い立場に置かれた方々の最前に立つと、私たちが立党の時に示した精神をより強固なものにしていく。そのお約束をさせていただきます。(上のYouTube動画の31分から)
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命の選別云々については書くことなどない。いうまでもないことだ。すでにこの世の中は命の選別をしている、末期医療の現場では命の選別をしているなどと言ってる人もいるが、土俵の違う話だ。山本太郎が言っているのは政治の場での話。
上に引用した人間観が、手前味噌で恐縮だけど、拙ブログで書いたことと重なっていると感じた。山本太郎の語る反緊縮・積極税制を中心とした経済政策の提案に対して、僕は正直に言ってわからない。ただ、この人は本物だ、と感じたのはこういう、街頭インタビューなどの時にも話の端々に出てくる彼のこういう人生観、人間観に共鳴するものがあったからだ。
拙ブログのエピグラムにしている漱石の「いざというまぎわに、(普通の人間が)急に悪人に変わるんだから恐ろしい」という言葉は、現代の、あるいは歴史の様々な事象を考えるときの大きな手がかりになると思っている。
また、
映画「否定と肯定」でアウシュヴィッツを見た弁護士が語ったセリフ「恥を感じた。もし自分があのような立場に立たされたら、自分だって同じことをしただろう」が、自分を被害者ではなく、悪をなす可能性のある者として考えるこの見方が大切だというのは常々書いている通り。だからこそ、そうした悪に取り込まれないように、悪と向き合い、常にそれを反省することが大切なんだと思う。これ、きれいごとじゃないと思うよ。
参考
辺見庸「1⭐︎9⭐︎3⭐︎7⭐︎」「ヒトラーの娘たち」覚書き南京事件個人的論争顛末記 笑)堀川恵子の二冊の「永山則夫」本Ch.ブラウニング「普通の人びと」とそこから思うこと映画「日本鬼子(リーベンクイズ)」自らのザマアミロ感を憎むことなんか、適当に検索したら山のように出てくるからこの辺でやめときます。結局私は同じことしか言ってない 笑)
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