
昨夜は「琉球併合140年の歴史と現在〜八重山・沖縄から日本を問う〜」というシンポジウムを見にいってきました。パネリストは詩人の八重洋一郎さんと哲学者の高橋哲哉さん。

八重さんは17世紀初頭の薩摩島津藩による琉球侵攻から明治、昭和そして現在における日本の琉球に対する干渉を自らの祖先のエピソードも交えながら、「日毒」というキーワードで語ってくれました。日本が沖縄にやってきたことは「毒」だと捉えているわけです。
拙ブログでも書いたことがありますが、戦後になっても、
昭和天皇の沖縄献上発言から現在まで、ずっと僕たち本土の人間、いわゆるヤマトンチュからの差別的な視線の集約が、現在の辺野古を中心とする沖縄の基地問題に続いていくわけです。
高橋さんは、これは僕も少し前の通販生活で読んだんですが、現在の日本人が日米安保に賛成している以上、それならば米軍基地は「本土」に引き取るべきだと主張しています。想像ですが、これは「本土」で引き取ることで、日本人に本当に日米安保の必要性があるのかを考えさせるという戦略なんだろうと思うんですけどね。
今回高橋さんも朗読していた八重洋一の「手文庫」と言う詩。書き写しておきます。
*
その時すでに遅かったのだ
祖母の父は毎日毎日ゴーモンを受けていた
にわか造りの穴(ミィー)のある家
この島では見たこともないガッシリ組まれた
格子の中に入れられ
毎朝ひきずり出されては
何かを言えと
迫られていた そしてそれは
みせしめに かり集められた島人たちに無理矢理
公開されていた 荒ムシロの上で
ハカマはただれ血に乾き 着衣はズタズタ
その日のゴーモンが過ぎると わずかな水と
食が許され その
弁当を 当時七才の祖母が持って通っていたのだ
祖母の家は石の門から
玄関まで長門(ながじょう)とよばれる細路が続いていたが
その奥はいつも暗く鎖され
世間とのあれこれはすべて七才の童女がつとめた…
こんな話を 祖母は 全く
ものの分からない小さなわたしにぶつぶつぶつぶつつぶやき語った
祖母の父は長い厳しい拘禁の末 釈放されたが
その後一生一語として発声することなく
静かな静かな白い狂人として世を了えたという
幾年もの後 廃屋となったその家を
取り壊した際
祖母の父の居室であった地中深くから ボロボロの
手文庫が見つかり その中には
紙魚に食われ湿気に汚れ 今にも崩れ落ちそうな
茶褐色の色紙が一枚「日毒」と血書されていたという
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