
この本は完全に表紙に惹かれて手に取った。副題は「軍はなぜ市民を大量殺害したか」
扱われているのはゲルニカ、上海・南京、アウシュヴィッツ、シンガポール、リディツェ、沖縄、広島・長崎で、この中ではシンガポール(中国系の市民の日本軍による虐殺)とリディツェ(ハイドリヒ暗殺の報復として地図から消された村)以外は誰でも聞いたことがあるだろうと思う。
そして、これらの話の中で、南京やアウシュヴィッツ、リディツェについては拙ブログでも映画や本と絡めて書いたことがある。
南京関係は:
清水潔「『南京事件』を調査せよ」南京事件個人的論争顛末記 笑)笠原十九司「南京事件論争史」アウシュヴィッツは:
ギッタ・セレニー「人間の暗闇」など(完全ネタバレ)映画「否定と肯定」映画「サウルの息子」リディツェは:
ローラン・ビネ「HHhH」映画「ハイドリヒを撃て」だけど、読んでいてめまいがするほどの怒りを感じたのは沖縄の章だった。米軍に投降した市民(乳幼児まで含む)を殺害した後、自らは米軍に投降して戦後を生き延びた指揮官たち。しかも、彼らは戦後になってインタビューを受けても全く反省の色を見せず、それどころか胸を張る。
鹿山正や、
大江健三郎の裁判で有名になった赤松嘉次のインタビューの一部が再録されているが、怒りのあまり頭がクラクラした。アメリカ軍からの依頼で降伏を説得に来た女子供を即座に殺害したり、一家皆殺しした後、家に火を放ち、5歳や2歳の子供やもっと小さな乳児の殺害を「措置」と称して正しかったと言い張り、良心の呵責もないどころか、日本軍人として誇りを持つと言い放つ(p.210以下)。
先日ここにも書いた「日本鬼子(リーベンクイズ)」に出てきた皇軍兵士の老人たちも中国で同様のことをしたが、鹿山や赤松のように開き直りはしなかった。これだけでもこの両者には何か決定的な違いがある。
一方、シンガポールでもあるいは沖縄でも、シンドラーや杉原千畝、あるいは「戦場のピアニスト」に出てきたユダヤ人を救うホーゼンフェルトのような人が日本にもいたことが挙げられている。シンガポールで市民を救った篠崎護や、虐殺直前に市民たちを逃がした無名の日本兵の話がホッとさせられる。また沖縄ではひめゆりの少女たちに自決せず投降するよう命じた永岡敬淳大尉の名前が出ている(しかし、厄介なのはこういう人格者たちを持ち出して日本軍の蛮行の否定につなげようとする人がいることである)。
書かれているのはどれも凄まじい話だけど、この本ではそれぞれの事件の情景を描き、それぞれそのような非人間的なことが行い得た理由が語られている。でも結局は差別意識と想像力の欠如が大きい。敵は人間ではないという差別意識と、そこで死んでいく者たちのことを想像する力の欠如。そしてこの本でもう一つ強調されているのが、上官の命令という絶対的権威。命令だったから仕方がなかったのだ、という言い訳はアイヒマンもアウシュヴィッツの所長ヘスも言っていることだ。
この本では最後にドイツと日本が戦後になって市民の大量殺害とどう向き合ったかが書かれている。現在のドイツの軍人法には、「第二次世界大戦期における国防軍や親衛隊の「命令への絶対服従」がもたらした負の歴史への反省に基づき、上位者の命令を絶対的権威とは見なさない、つまり「無条件の絶対服従」を下位者に要求しない制度を用意している」(p. 268)そうである。兵士には「抗命権」があり、実際にそれが行使された実例も載っている。
仮に市民を殺すような命令に対して、兵士にはそれに従わない権利が保障されたというのは、逆に言えば、命令を下す方にとっても非倫理的な命令をためらわせる効果がある。
一方の自衛隊法は、「上位者は常に無謬であり、間違った命令を部下に下すことはないという、かつての日本軍と同様の「上位者無謬神話」に基づいて策定されている」(p.280)
まあ、軍隊など無くしてしまえば市民を大量虐殺もなくなると簡略化してしまいたいところだが、現在の日本ではこれは説得力がまるでないだろうな。そうであれば、この兵士に与えられた「抗命権」は、現代のこの世に存在する軍という組織が国際法に違反したり、個人の尊厳や良心の自由を侵害するような行為をしないようにするための歯止めに、かろうじて、なるのかもしれないと思う。
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