
古典ってやっぱりすごいから残ってるんだよね。今の時代に合わないと言う人もいるかもしれないけど、これを読めば古典のすごさがわかるだろう。トルストイと言う人はドストエフスキーなんかよりもずっと冷酷な目を持った人だったんだろうなぁ。褒め言葉です。
学生時代からドストエフスキーは随分読んだけど、トルストイはほとんど読まなかった。なんとなくドストエフスキーの方が高尚そうな感じがしていた 苦笑)日本の小説家でも当時好きだった高橋和巳や埴谷雄高なんていう作家はドストエフスキーマニアだったし、なんとなくトルストイはもう一つ前の世代の白樺派とかヒューマニズムと繋がるイメージだった。若い頃には素直になれなかったから、ヒューマニズムなんて「臭い」って思っていた。
前にも書いたように、それでもせめて「戦争と平和」は読んでみようと何度か試みながら挫折していた。
でも20年ぐらい前、30代の終わり頃に「アンナ・カレーニナ」を読んだら、想像以上にモダンな印象で、意識の流れのような描写もあったりしてすごいと思った。
と言うわけで、正直にいうと、この小説はもう40年も前から読みたいと思いながら、読めなかった小説だった。死とは他人の死であって自分の死ではない。ここでも人々はイワン・イリイチと親しい人々ですら、彼の死と向き合おうとしない。これは実存主義哲学やハイデガーなんかでいわれていることだ。
イワン・イリイチの葬儀から話が始まり、彼の人生が語られるという映画的な構造で、彼の青春時代から恋愛と結婚、そして子供の誕生と夫婦の不仲というありふれた人生が語られる。子供が生まれ、職場での妬みや成功、あるいは友人たちとのトランプ遊びへの熱中、そして新居を手に入れて丁度を整えている時に梯子から落ちて腹を打つ。これがほぼ全体の4割程度のところで、そのあとは、その怪我が原因でどんどんイリイリの体調が悪くなっていく様子が描かれる。
イワン・イリイチは判事だからそれなりの地位にいるけど、死を前にして自分の人生は間違いだったと感じなければならない。でも間違いじゃない人生なんてあるんだろうか? 召使いの農民の純朴なゲラーシムは「戦争と平和」の農民兵プラトン・カタラーエフと同じく、トルストイの考える理想的な死生観を体現しているんだろうと思えるけど、全てをそのまま受け入れ、死に対しても目を逸らさないと言う態度は理念としては良くても実生活でなんでも受け入れて疑問を持たないことがいいことだと言う風につながりかねないんじゃないか。
それでもイワン・イリイチの最後は、やっぱり「戦争と平和」のアンドレイ・ボルコンスキーの死と同じような、なんとなく救われたような暗示で終わるのがホッとした。しかしすごい小説だね。多くの人が読むべきだと思います。
追記(6/1, 14:40)
FBでのコメントで、高級官僚やガリ勉秀才に読ませてやりたいですね、というコメントをもらいましたが、本当にそうですね。安倍がこれを読むとは思えないけど、そのバックでやりたい放題の連中には是非とも読んでみろ!と言いたい。ただ、ひょっとしたら秀才君たちはすでに読んでいるかもしれません。知識の一環として、読んだことがあるというアリバイ作りで読んだだけで、すでに忘れたかもしれないけど、もう一度読んでみてどんなことを思うか、ぜひ聞いてみたいなぁ。
よければ、下の各ボタンをポチッとお願いします(まあ、大した意味ないですので、ポチッとしなくても構いません。おまじないみたいなもんです 笑)

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト