拙ブログでも紹介したことがある「善き人」という映画を思い出した。連想の理由は、つまり、ナチスの時代を舞台にした英語の映画で、設定に多少強引なところがあっても、非常に感動的な、かつやりきれない悲劇に仕立てているという点かな。
絶滅収容所の所長を父に持つ8歳の少年が主人公。彼が家を抜け出して収容所の同じ年のユダヤ人の少年と知り合いになる。まあ、こういう映画って子役ですね。ここでの子役はどちらもとてもいい。芸達者な主人公に対して、寡黙で伏し目がちなユダヤ人少年。
それから細部のリアリティ。例えば主人公の姉は最初はお人形遊びをしているような子供だったのに、徐々にナチス色に染まっていき、壁にはヒトラーのポスターを貼ったり、髪型もいかにも女性版ヒトラーユーゲント(ドイツ女子同盟)っぽくおさげに変わってゆく。その引き金になるのは、父の部下の美男の将校への恋心。これがまたいかにもナチっていう感じで、子供を怒鳴りつけるシーンの迫力のすごいこと。そのくせ別れのシーンでは一瞬だけど、普段の厳格さは作り物だと感じさせる。
一家の台所で下働きをしているユダヤ人の収容者の顔と、足を引きずる歩き方も良いし、言葉数の少ない、なのに様々なシーンで目が語っているようなメイドもいい。家庭教師にくる老人も厳格でナチスの信奉者だが、自転車でやってくるなんていう造形もいい。
一方で、お話作りのために、実際の収容所やそれを取り巻く人たちの歴史的事実とは異なる点もあるように思う。例えば、母は絶滅収容所の実態を知らなかったことになっているが、そんなことがあり得るのだろうか? そして途中で事実を知り、夫と繰り返し喧嘩をするが、当時のナチ思想に染まった収容所長の妻が事実を知ったところで、果たしてあんな風に夫に食ってかかるだろうか?
以前紹介したウェンディ・ロワーの「ヒトラーの娘たち」という本には、女性だからといって何も知らなかったわけではなかったし、自ら銃を手に加害者になった(しかも場合によっては積極的に)人たちの例も書かれていた。
また父の部下の美男の将校は食事の席で唐突に、それまでずっと隠していた自分の父のことを話してしまうのだが、このシーンはなんか不自然に思えた。またユダヤ人の少年は収容所のすみっこで一人ぽつねんと座り、主人公の少年と話をすることになるのだが、実際の収容所であんなことができたのだろうか? そもそも絶滅収容所では子供はまず最初に殺されたのではないのか? 収容所にあのような誰にも見られない区画があったとはちょっと思えない。しかもあるシーンでは鉄条網を挟んでチェス?をやっていたりする。これはお話のために強引に作り出した設定のような気がしないでもない。
と、不満もありながら、ラストはショッキングだった。主人公の少年とユダヤ人少年は最後に固く手を繋ぐ。一方で、豪雨の収容所の中で周章狼狽する父親の顔の一瞬のアップに「ざまあみろ」と言いたくなっている自分に気づき、なんともやりきれない気分にさせられた。冒頭に書いた「善き人」もそうだったけど、こういう単純ではない悲劇性を表現した映画は本当に素晴らしいと思う。
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