余命宣告された学生が受けたいと願った道徳哲学の講義だそうです。少し前に流行ったハーバードのサンデルの白熱教室みたいな、平易な言葉で無茶な、というか極端なケースをちりばめながら、僕らの日常的な感覚に疑いを抱かせます。
例えば、初っ端から、まず死を考えている今の自分と死ぬ時の自分は同じかという問いかけ。確かに僕らの細胞は次々と死につつ新しい細胞が生まれている。7年(だったかな?)で全ての細胞が入れ替わる。そんな僕らに同一性があるのか、ということで、通常、精神疾患で人格乖離にでもなってない限り、普通はあんまり考えないことだろうけど、哲学の基礎としては有名な問いかけです。
あるいはごく普通に口にされる「人は結局一人で死んでいく」という言葉だって、人間の行いはほぼ全て一人だと混ぜっ返される。そもそも私が存在している時に死はなく、死がある時には私は存在していないのだから、なぜ死を恐れるのか?
読みながらいろんなものを思い出した。不死を語るところでは手塚治虫の「火の鳥」の未来編、地球滅亡の時に不死にされた主人公の絶望や、ファウストのように悪魔と契約してこの世のあらゆることに満足を求める生き方、無論昨今話題の脳死は人の死か、とか安楽死の問題なども。
だけど、結局死を考えることはいかに生きるべきかを考えることにつながるという、ごく真っ当なところに行き着きます。そこで、ではどう生きるのがいいのか? 人生とは良いこと(快)や悪いこと(不快)を収める器(うつわ)だという説が紹介され、個人的にはここが一番面白かったかなぁ。
ただ、人生をプラスとマイナスで数値化、とまでは行かないけど天秤に掛けるような考え方がいいのか悪いのか。。。相模原事件の犯人のような生きていても意味がないなんていう考えや、最近の新潮45のLGBTには生産性がないなどという言い方にも繋がっていくのではないか、と一抹の不安も感じます。
それは最終節での自殺を巡る論考でもそうで、今朝ほど読み終わったところですが、どこかなんか引っかかるものがあるような気がしてならないです。図書館で借りたんですが、時間をおいてもう一度読み直してみたいと思うので、この値段だし、一冊持ってても悪くないでしょう。
小見出しがたくさんついていて、話も観念的にならず、とても読みやすいです。

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