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私たちが今ここにいるのは運が良かったから

2018.09.10.17:22

今世紀に入って自己責任という言葉がはびこっている。僕は最初からこの言葉が大嫌いだった。そもそも僕の子供の時、こんな言葉を聞いたことがなかったし、実際、昭和に出た全10巻の小学館の「日本国語大辞典」を調べても、こんな言葉は載っていない。なんか胡散臭い言葉だと思っていたし、この言葉を口にする者の傲慢さが感じられるような気がしていた。そもそもこの言葉は立場が強いものが弱いものに対して発する言葉であって、その裏にはどこかに「ざまあみろ」という下劣で恥ずべき感情が隠されていると感じた。この言葉が有名になったのは、イラク人質事件で政治家や官僚が言ってからだったと思うが(無論もっと前に経済とか投資の分野では言われていたんだろうが)、案の定、自己責任と言い出した奴らほど責任など取らない。

つまり自己責任という以上、それに先んじて自己決定があるはずである。だけど、仮に「決定」したとして、その際にあなたは完全に自己の意思で自由に決定したのか? そもそも自己責任を問えるほど人間は自由か? 今あるあなたの存在はあなたが決定したことの結果なのか? 

また、人が何かを決めるとき、自分の意思だけで決めることなどあるのだろうか? 様々な環境や対人関係などのしがらみから決めるだろうし、そもそも決定するにあたって、完全な情報を持った上で決定したのだろうか? 

こんなことを言うのはフィンレイソン著「そして最後にヒトが残った」という本を読んだからだ。



50万年前から、地球上には20を超える種類の人類が誕生しては消えていった。その中で特にネアンデルタール人は30万年ぐらい前から2、3万年前まで繁栄していた。だけど結局消えてしまった。今現在地球上に残っている人類は我々ホモ・サピエンスだけだ。

ネアンデルタール人が消えてしまった理由として有名なのは、少し前にも紹介したゴールディングの「後継者たち」に暗示されているように、我々ホモ・サピエンスが滅ぼしたというもの。でもこの本ではそれは完全に否定される。



19世紀からダーウィンの自然淘汰説が「適者生存」という言葉で表され、ダーウィンの意思とは違って、後から現れた者が先に滅んだものよりも優れているという風に解釈されてきた。要するに「進化」という言葉には優れたものが劣ったものを駆逐するというニュアンスが含まれる。

恐竜が滅んだのは哺乳類よりも劣っていたから。同じようにホモサピエンスの方がネアンデルタール人より優れていたので、彼らを滅ぼした。しかし恐竜の絶滅も、ネアンデルタール人が滅んだのも、彼らがその後に繁栄を謳歌する者たちより劣っていたからというわけではなく、

「私たちが今ここにいるのは、単に適切な時に適切な場所にいたからであって、つまりは運が良かったからにすぎない」

と、この本では強調される。

しかし、この「適者生存」が人間社会にも当てはめられて、いわゆる「勝者」が自己正当化するための方便にこの言葉を使ってきた。例えば英国と植民地を考えてみれば、英国が繁栄しているのは英国が優れているからである → 優れていない国を支配化に置くのは当然である、という図式につながる。この図式に乗ったのがナチスだ。

ナチスの敗北とともに否定されたと思われたこうした社会ダーウィニズムが、現代の日本では露骨に大手を振っている。自己決定・自己責任を言い募る者たちは自分の現在の成功を自分の能力と決断によって得たのだと、自分を肯定したいだけである。



道が分かれている。どちらへ行けばいいか? とりあえず片方の道を選んで行ってみたらクマに襲われてしまった。その道を選んだお前の自己責任だ、こういう言い方が今の日本では結構受け入れられているのではないか。下手すれば襲われた被害者自身が、自分で自分を納得させようとでも言うのか、仕方がない自己責任だとつぶやいたりする。

だが、こんなもの自己責任だろうか?

責任が問われるためには、選択の結果(あるいはその可能性)を知った上で、それでもあえてリスクを選択し、失敗した。これなら自己責任を問えるかもしれない。。。

だけど、本当にそれで自己責任を問えるか?

自転車レースを考えてみよう。昔ホビーレースによく出ていた頃、スタート前に一番不安だったのは落車だった。落車の可能性は分かった上で出場するのだから、仮に落車があってもそれを人のせいにすることなく受け入れよう。自己責任だ。これはある程度納得行く人も多いかもしれない。

だが。。。

僕は20代後半から40過ぎまで、多分ホビーレースに40回近く出た。結局一度も落車しなかった。だけどこれは運が良かっただけだ。つまり可能性があっても本当に落車するかしないかは運である。

運悪く落車を経験した人もたくさんいるだろう。彼らが、あんなところにいた自分が悪いのだと自己責任論のようなもので自分を納得させようとする気持ちはわかる。だけど運良く落車せずに済んだ僕は、不運な人たちに対して「自己責任」などという言葉を、口が裂けたって言わない。

人工透析患者は死ねと書いたアナウンサーだか議員だかがいたが、同じ生活を送っても、つまり同じように暴飲暴食をしてもそうなる人とならない人がいる。様々な面で人は運良く今を生き続けている。

エリートたちは自分の今ある姿を小学校からの猛勉強の賜物であると思うかもしれないが、その前にまず勉強に専念できるだけの余裕のある家庭(環境)にあったという運に感謝すべきだろう。ところが、現在の日本社会ではそういう謙虚さが失われてしまった。

自己責任という言葉は汚い権力者の使う言葉である。本来国民のために国があるのであって逆ではない。だからこそ憲法では国民のために国がすべきことが書かれている。それをなし崩しにして、国がすべきことをグズグズにし、国民が国(=権力者)のためにすべきことへと逆転させようとしている言葉である。

自己責任という酷薄な言葉、これはあくまでも一般庶民がお互いをなじりあうために発する言葉ではない。


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アンコウ

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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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