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映画「ゲッベルスと私」雑感

2018.06.23.15:18


ユダヤ人を絶滅収容所へ送る係だったアイヒマンは、哲学者ハンナ・アーレントにより、「凡庸な悪」とされた。とんでもない悪魔のような男を予想していたら、ただの「職務に誠実な」小役人に過ぎなかった。そして彼は自分の手でユダヤ人を一人として殺したことはなかった。ただ、上からの命令に従って、粛々とユダヤ人の絶滅収容所への移送書類にサインした。誰でもアイヒマンになり得る。それゆえ「凡庸」なのだ。誰でもなり得るのだから。

さて、この映画(ドキュメンタリー)の主役、撮影時103歳だったブルンヒルデ・ポムゼルはユダヤ人虐殺について、「何も知らなかった。」と言う。この点で、彼女はアイヒマンとは違う。少なくともアイヒマンはユダヤ人虐殺は知っていたどころか、虐殺に加担していた。

ただ、問題は彼女は本当に知らなかったのか? この映画は無論彼女が本当に知らなかったのかを問う映画ではないけど、いやあ、知らなかったはずないだろ!何しろゲッベルスの秘書なのだ。反ヒトラーのビラを撒いて処刑されたショル兄妹の書類すら知っているのだ。ユダヤ人がどういう目にあっているか、知らなかったはずはない。

つまり、彼女は知らないことにしたがったのだろう。見たくない、知りたくない、そうして面倒臭いことを考えずに済むように自分を偽った。これは彼女だけでなく当時のドイツ人のほとんどがウスウス感じていたけど、誰もそれ以上考えようとしなかったんだろうと思う。そして後になって知らなかったという。だけど、これを知らなかったと言っていいのか? 考えなかったではないのか?

彼女自身が自分は政治などまるで関心がなかった、初めて恋人に連れられていったナチスの大会は退屈でしょうがなかったと、自分はノンポリだったことを強調している。多分それは本当だったのだろう。だからこそ、このドキュメンタリーの恐ろしさがある。今の社会そのものではないか。彼女のような人は今の社会にたくさんいる。自分の心を波立てるようなことは知らないことにしたい。

映画は白黒で、黒い背景の中でポムゼルをライトアップして彼女に語らせる。彼女の声以外音楽もない。カメラも固定でズームしたりしない。103歳の老女の顔は写真のようにシワだらけでそのシワの深さにも驚く。冒頭の無言の緊張感ある出だしから始まり、幼い頃の思い出、第一次大戦から戻ってきた父の厳しいしつけなど、ナチス時代のドイツ人の感性を作った社会の雰囲気も感じさせられ、思わず、ハネケの「白いリボン」を連想した。

彼女の話の直後にゲッベルスのアフォリズムめいた言葉が続き(こんなのがあった。「嘘をつくならつきとおせ!」)、当時の記録映像が挟まる。彼女が自分に都合の良いように解釈した当時の記憶の直後に、客観的な当時の記録映像が続くことで、その対照がわかる。

例えば、彼女はユダヤ人弁護士のもとで働いていたことやユダヤ人の友人がいたことなどをさりげなく語る。そしてユダヤ人たちがまさか強制収容所で虐殺されていたなんてまったく知らなかったという。それどころか、東方(=収容所)へ送られたユダヤ人たちは、そこでユダヤ人の集落を作ることができて、彼らも一つになれる、と都合の良いように解釈したという。その直後に挟まれる記録映像ではゲットーで餓死した母子の裸の死体が道端に転がり、しばらくすると人がやってきて、その死体を無造作に台車に放り投げるように積んで運んでいくと、子供の方の死体が台車から転がり落ちるという凄惨なシーン。

誰も逆らうことなどできなかった、ドイツに住む人たちみんなが収容所に入れられていたようなものだったのだから、後から言うことは簡単だけど、実際その場にいたら何もできなかった。そう彼女は言う。そしてそのあとに続く記録フィルムは収容所で亡くなった人たちの遺体を埋葬させられるドイツ人たちの映像。

彼女の語る処刑されたショル兄妹に対する思いも、彼女の負い目の裏返しのような言葉だ。「ビラなんか巻いたからで、黙っていれば今も生きていたはずよ」と言い放つ。そして「私に罪があったとは思わない。ただし、ドイツ国民全員に罪があるとするなら話は別だ。結果的にドイツ国民はあの政府が権力を握ることに加担してしまった。そうしたのは国民全員で、もちろん自分もその一人だ」という。

だけど、こんな乱暴な言い方ってあるだろうか? 少なくともナチに積極的に加担したものとそうでないものとの差はあるはずだし、ヒトラーに命をかけて反対し、処刑された人たちはショル兄妹以外にもたくさんいる。以前書いた映画「ヒトラーへの285通の手紙」のモデルのハンペル夫妻(作中ではクヴァンゲル夫妻)だってそうだ。彼らやその他大勢のナチスに反対して民族裁判所で有罪になり処刑された人たちは無論のこと、命はかけられなくともヒトラーのナチスを快く思っていなかった人たちの多くが、戦後になって、自分たちに罪はあったと言った。自分の無力さを恥じると言った。

不思議なことに、それに対して、ナチスに浮かれ、党員になり、独裁政権から果実を得た人たちほど、戦後になって自分は知らなかった、自分に罪はないと言うのである。そして心に少しやましさを感じている一般の、ナチにそれほど積極的に加担はしなかったが、見て見ぬ振りをした人たちも、戦後になってみんなが一緒に知らなかったと言ったのである。

知らなかったはずはない。知ることはいくらでもできた。なのに知ろうとしなかっただけである。「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」(ハンス・ファラダ「ベルリンに一人死す」 p.185) これが多くのドイツ人の本音だったのではないか? では、翻って現在の日本は? 

最後に、いつも同じことを言っているけど、こういうことにならないような社会にしなければならない。


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アンコウ

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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、音楽はバッハと友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎはもっと困るが)。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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