
昭和49年、値段970円 笑)
スコセッシが作った映画「沈黙」を見ようと思って、実に40年ぶりに遠藤周作の原作を読み直した。主人公のパードレロドリゴが山中を逃げまわるシーンは、唐突に大岡昇平の「野火」を思い出した。初めて読んだ当時と比べて、人々の犬死の歴史をずいぶんたくさん知ったから、この本のテーマ「神の沈黙」については、ロドリゴにあまり感情移入できないし、ある意味で空々しくも感じたけど、しかしそれでも、最後のクライマックスシーンは感動した。
棄教すれば、拷問を受けている貧しい信者たちを救うと約束されたロドリゴに向かって、すでに棄教したフェレイラが言う「もし基督(キリスト)がここにいられたら(。。。)確かに基督は、彼らのために、転んだだろう」というセリフとか、「践むが良い」と語りかけてくる踏み絵に描かれたキリストは、キリスト教から遠く離れた現在の僕にも迫ってくるものがあった。
だけど、
先日紹介した映画「9日目 ヒトラーに捧げる祈り」での主人公の神父は、ロドリゴまで極端ではないにしても、反ナチの信念に背いてルクセンブルク大司教を説得すれば、家族はもちろん収容所にいる神父たちも解放されるという条件を出されるが、それを拒否して自らダッハウ収容所へ戻っていく。史実による統計によれば解放されなかった神父たちの半数は死んでいるのだ。遠藤流のキリストならどう言っただろう?
で、映画は1971年に篠田正浩監督で作られた「沈黙 SILENCE」と2016年のマーチン・スコセッシの「沈黙 サイレンス」の二つがあり、どちらも名作とされている。
最初に言いたいのは、両方ともにポルトガル人神父が英語を喋るという違和感。特にスコセッシ版は浅野忠信の通訳不要だろというぐらい、日本人がみんな英語を喋っちゃう。牢屋の中の農夫の娘まで英語を喋っちゃうんだからね。なんか英語万能主義みたいな嫌な気分にさせられた。
まあ、字幕に集中しちゃえば問題ないんだけどね。でもパライソって言っているのにパラダイス?と聞きなおしたり、コンヒサンと言われてコンフェッションと言い直したり、やっぱり違和感出ちゃうでしょ? だから最後のフェレイラとロドリゴの対決で、「神の子(サン)」と太陽(サン)とをかけた話も、おいおい、この二人ポルトガル人じゃないのかよ、と突っ込みたくなる。
原作では、裏切り者キチジローのセリフはこんな感じだ。「パードレ。なあ、聞いてつかわさい。」それが映画では「プリーズ・リッスン・トゥー・ミー」と言われる。なんか、雰囲気が全然違うっしょ?
原作に近いのは篠田版で、原作のセリフがそのまま使われているところが多い。ただ、原作には全く出てこない女郎の三田佳子とか、岡田三右衛門夫妻の拷問と妻岩下志麻の棄教、夫の処刑のシーンは、あえて言うなら、この女っ気のない原作に色を添えるために美女二人をムリムリ出演させたんじゃないの、と勘ぐりたくもなる。また、細かいことを言い出せばきりがないけど、そんな中でも、一人逃げるロドリゴが女物の赤い着物を着るのは原作にはないし、なぜなのかわからない。
これに対してスコセッシ版は篠田版が完全にカットした冒頭のマカオで渡航前、キチジローと会うシーンが入り、この映画でのキチジローの役割の重要性が最初から示されている。しかし、この重要性は最後に、原作にない棄教後のロドリゴの生活の中で、キチジローが彼の下男として働いていることになっていて、原作以上にキチジローに重点が置かれている。
どちらも最後は、正直に言うと気に入らない。篠田版では棄教したロドリゴが妻として与えられた岩下志麻を抱くシーンで終わる。しかもそれを先に棄教したフェレイラが覗き見ている。だけどこれでは、原作が暗示する、カトリックが説くイエスとは違うイエスをロドリゴが信じていることははっきりしない。
原作では棄教したロドリゴが井上様に向かって自分がが戦ったのは自分の心にある切支丹の教えだったと言う。つまり彼は、カトリックの教える強い者のためのイエスではなく、弱い者のためのイエス、踏み絵を踏んでいいんだよ、と教え諭すイエスに対する信仰を獲得したことがわかる。
一方でスコセッシ版では、ロドリゴが老衰で死に、火葬にされるときに、手に十字架を持っている。おそらく彼の妻(妻との関係は非常にドライだったようである)が彼の手に握らせたのだろう。完全にキリスト教を棄てた生活を送りながら、最後の最後に彼なりのイエスに対する信仰を持ち続けたことが暗示されているわけである。その意味ではこちらの方が原作の意図に忠実なのかもしれない。ただ、日本人になり、キリシタン屋敷で生活した彼の下男にキチジローがついていたというのはちょっとやりすぎなんじゃないかなぁ。
俳優陣はどちらもいい。特に今回見て、篠田版の通訳をやったと戸浦六宏の声の良さが印象に残った。キチジローは篠田版のマコ岩松よりスコセッシ版の窪塚洋介の方が、弱く哀れでずるくて卑屈でみっともない姿がよく出てたと思う。ただ、ふんどし一丁で逃げて行く後ろ姿に、ちらっと竹中直人が垣間見られたりしたけど 笑)
井上様は篠田版の岡田英次は立派すぎだけど、スコセッシ版のイッセー尾形も、そのいやらしさの表現、うまいのは認めるけど、やりすぎじゃないかなぁ。原作にある、常に手をさすっているというのは岡田はやっているけどイッセー尾形は、そのような老人らしさを、立ち上がる時に部下の手を借りるという形にしている。
主役のロドリゴは篠田版では無名のアメリカ人がやったが、スコセッシ版のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)は最後の方では明らかにキリストの顔を思わせる。途中で水に映る顔がキリストの顔になるシーンもあり、ロドリゴ=キリスト、キチジロー=ユダが強調されているのだろう。それに対して強い信者として波に打たれて4日かかって息絶える塚本晋也のあばらの浮き出た姿もいい。篠田版では塚本がやったモキチやじいさまはあまり大きく扱われない。
フェレイラは篠田版では丹波哲郎がやってて、ちょっとね 笑) スコセッシ版ではリーアム・ニーソン(シンドラーだわ)。ロドリゴと最初に会う瞬間の演技はとても難しいものだと思う。原作ではその瞬間のフェレイラについてこんな風に書かれている。「その目に卑屈な笑いと羞恥の光が同時に走った。それから今度はむしろ挑むようにわざと大きな目でこちらを見下ろした。」
この感じはニーソンの方が雰囲気が出ていたかなぁ。丹波哲郎は、やっぱりどれだけ髭をくっつけたところで、丹波哲郎だってわかっちゃうしね。
映画としては風景や村の様子など、どちらも素晴らしい。音楽は篠田版では武満徹に対してスコセッシ版では音楽の印象はほとんどない。
というわけで、原作は言うまでもないけど、映画もどちらも面白いです。しかし、原作を読んだ上で見ると、面白さも倍増するし、わかりやすくなるでしょう。特に篠田版ではロドリゴと同僚の一緒に日本に密航したガルペ神父の分かれるシーンが説明も何もなく唐突に分かれているので、原作を読んでいることが前提で作られているのかもしれません。

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