リベラルを謳っているFBグループでも、オウムの裁判がすべて結審した1月終わり頃には、彼らを早く死刑にしてしまえと書き込む人がたくさんいた。死刑囚を留置所で養うのに年間でかかる費用とやらを具体的にあげて、血税の無駄だという人もいた。リベラルなFBグループですらこうなのだからね。
拙ブログでも安倍批判以上に反論が多いのは死刑反対と書くときだ。あるネトウヨ氏などは、僕が死刑に反対だと書いたら、お前の娘が集団暴行された上、無残に殺されてもそんなことが言えるのか、と、まるでそんなことを言うならお前の子供を殺してやる、と言わんばかりの憎しみに満ちたコメントを書いてきた。
なぜなんだろう、自分の家族や知り合いが殺されたわけでもないのに、そこまで加害者を憎み、殺せと叫ぶのは?? 一方で死刑に反対する者を、まるで被害者と遺族の気持ちを想像せず、加害者の肩だけを持つ人間だとでも考えているのだろうか? そもそも、まともに考えれば、そんな奴はいるわけないだろう。
加害者に想いを馳せることが、被害者を侮辱することになるとでも思っているのだろうか? 一つのパイを分捕りあっているわけではないんだよ。加害者の人権と被害者の人権の分捕り合いなんかできっこない。それぞれが一つのパイ(人権)なんだよ。加害者のことを語る事で被害者のパイが小さくなるわけではないし、逆もまた同じことだ。
さて、この堀川恵子という人の本はすごく気になっていた。だけど読めば絶対辛くなるのはわかっていたから二の足を踏んでいた。先月末の友川カズキライブで、友川さんがこの人の書いた「永山則夫・封印された鑑定記録」を紹介し、ライブの打ち上げでも、自分と弟の関係を仮託して読んでしまったと言って、「読んでごらん」と声をかけてもらった。早速近くの図書館にあったので借りて、今日の午前中に読み終えた。持っててもいい本だと思えるので購入しようと思う(最近はまず図書館で読んでから購入を考えるようになった 笑)
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「死刑の基準 『永山裁判』が遺したもの」
一般に死刑の基準とされる「永山基準」と呼ばれるものができる裁判の経過について書いたもの。永山則夫の生い立ちから、なんの意味もなく4人を射殺した事件、大荒れの裁判から獄中結婚、一審の死刑判決から無期懲役にした二審の船田裁判、そして最高裁での差し戻しによる死刑確定と、永山則夫事件と裁判を時間を追って描いているが、中心になるのは無期懲役判決を出した船田裁判である。
これに対して最高裁での差し戻し判決に書かれた9つの量刑因子(例えば殺害の方法の残虐性とか殺害されたものの数とか、犯人の年齢、犯行後の情状などなど)が、のちに「永山基準」として、多くの死刑を求刑された裁判で言われることになる。
当初の「永山基準」の理念は「原則は死刑不適用」で、死刑はあくまで例外という考え方だった。ところが「永山基準」が一人歩きし始め、この9つを満たせば死刑にできるという、機械的に基準に当てはめることができるかのような転倒現象が起きてしまったのではないかという。
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「永山則夫 封印された鑑定記録」
前書が永山裁判の経過と永山の獄中結婚の成り行きを描いたものだとすると、こちらは永山の精神鑑定を行った石川医師と永山の関係を追ったものである。永山の壮絶な幼少時代、あるいは祖父母の代にまでさかのぼって調べ上げた石川医師の誠実さに心打たれるとともに、永山の幼年時代、少年時代のあまりの悲惨さに声を失う。
永山は母に捨てられ兄たちに暴力を振るわれ、ネグレクトされ、社会に出てからも頼るものはなく、被害妄想に苛まれ、他人の善意すら疑いの目で見てしまうほど精神的に危うい状態にあった。自殺願望もあり忍び込んだホテルの敷地や神社で警備員に見つかり、たまたま米軍基地で盗んで持っていた銃で二人を次々に撃ち殺し、母や兄弟たちに対する仕返しの気持ち、当てつけの気持ちで第三第四の殺人を犯す。
そんな永山が石川医師のカウンセリングとも言えるような鑑定を受け、人間としての心を取り戻していく。最終的に、一度は否定したその鑑定書を死刑になるまで手元に置き、繰り返し読み続ける。そこに書かれた「自身の生い立ちを、母の人生を、独房で繰り返し辿り反芻」する。
そして、それによって彼は「”連続射殺魔”から一人の人間に立ち戻り、最後まで被害者遺族に印税を届け」、「弁護士や支援者に墓参りに行ってくれるよう繰り返し」頼み続けた。「犯してしまった取り返しのつかない罪に、失われた命に捧げられるのは、もはや祈りでしかないことに彼は気付いたのではなかったか。」「彼は独房の中で、一人の人間として残された”命”を生き切ったのではなかったか。」(引用は全て文庫版P.452)
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最初の本によると1980年の世論調査では死刑を支持するのは60%強だったそうである。それが2004年には80%強、多分現在もその数値はほぼ変わっていないだろう。
このような傾向は現在の社会の右傾化と連動しているように思われて仕方がない。自己責任という言葉に踊らされて、どんどん薄情で不寛容な社会になってしまった現在の状況と、死刑制度を支持する世間の雰囲気は親和性が高いように思えるのである。
格差社会の中、貧困や家族崩壊、社会からの孤立など、永山を取り巻いた状況はあまり変わってない。当たり前だけど、一人の人間はその人の生きて来ただけのものを背負っている。それは被害者だってそうだし加害者だってそうだ。少年だった永山則夫がなぜ全く落ち度のない人間を4人も殺したのか。そして、彼の生い立ちを自己責任とか努力不足だなどと突っぱねることができるのか。
もちろん彼と同じような境遇にいながら犯罪など起こさない者もいるだろう。しかしその差を、自己責任という酷薄な言葉で片付けられるか、というとそうではない。石川医師も言うように、「もし、あの時。。。だったら」というポイントがいくつもあり、それが全て悪い方向へ向かってしまったという稀有なケースが永山事件なのだろう。
以前に書いたことだけど、僕は光市事件の被害者遺族の男性が、加害者少年の死刑確定時に発した言葉を思い出す。「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」
少年による凶悪犯罪は、彼ら個人の問題である以上に社会の問題であるのだろう。現在の石川医師が語る言葉は、拙ブログでもなんども書いた、人間は99%の普通の人がいて1%の悪人がいるわけではないという言葉につながると思う。「調べれば調べるほど、本当の凶悪犯なんて、そういるもんじゃないんですよ、人間であれば… 」(文庫版「永山則夫」p.454)
辛い話である。永山もかわいそう、そんなかわいそうな永山に殺された全く落ち度のない4人もかわいそう、そしてその遺族もかわいそう、永山と獄中結婚したミミさんもかわいそう、永山に無期懲役の判決を出した船山裁判官もかわいそうだし、永山の精神鑑定を行った石川医師もかわいそう。どうすれば彼らのようなかわいそうな人が出ない社会ができるんだろう? 悪いことをしたやつを排除しただけでは、そういう視点が出てこないだろう。そうでなければ永山も彼に殺された4人も、まるで犬死だ。
(死刑制度についての私の考えは8年近く前に書いたことと変わっていません。
「死刑制度について」)

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