少し前までは拙ブログでも何度か引用した
マルティン・ニーメラー牧師の詩がある(長くなるからここに引用はしないので、興味があればリンク先をみてください)。このニーメラー牧師もナチ時代に収容されていたのがダッハウの強制収容所、聖職者ブロックで、この映画での重要な舞台になる。
まあ、この手の映画は題名や副題に必ずヒトラーが入る 笑) ちょっと思い出すだけでも、「スターリングラード大進撃、ヒトラーの蒼き野望」とか、
「ヒトラーへの285枚の葉書」とか「ヒトラー最後の代理人」とか、「ヒトラーの忘れもの」とか「ヒトラーの審判、アイヒマン最後の告白」とか、「ヒトラーの追跡」とか
「顔のないヒトラーたち」とか、まだまだある。
「わが教え子ヒトラー」に「ヒトラーの贋札」、
「ヒトラー暗殺、13分の誤算」とか「ホロコースト、アドルフ・ヒトラーの洗礼」なんてのもあった。最近も「ヒトラーに屈しなかった国王」なんかがある。まだ見てないけど。
いや、「ヒトラー最後の12日間」とか
「帰ってきたヒトラー」とか、トム・シリングが若きヒトラーを演じた(まさしく怪演!!)「我が闘争、若き日のヒトラー」みたいに実際にヒトラーが出てくるならまだしも、上記の「スターリングラード大進撃、ヒトラーの蒼き野望」なんて拾い物のいい映画だったけど、ヒトラーもスターリングラードも大進撃も野望も全くでてこなかったもんね。ヒトラーが主役の「ヒトラー最後の12日間」や「帰ってきたヒトラー」だって原題にはヒトラーのヒの字もない。いわんや、ヒトラーが全く出てこない上に羅列した映画の原題においてをや(だけど、どれもそれぞれ良い映画だったことは強調しておきます)。
というわけで、この映画にも副題に「ヒトラーに捧げる祈り」っていう全く意味不明の副題が付いているけど、ストーリーは、というとこんな感じ。バイエルン州のダッハウ強制収容所にあった聖職者ブロックに、反ナチ的行為によって収監されていたルクセンブルク人神父のクレーマーがなぜか突然釈放されて帰国する。そしてそこでナチス親衛隊の少尉から、ナチスに協力しないルクセンブルク大司教を懐柔して、ナチスとカトリック教会の橋渡しを務めるよう命じられる。ルクセンブルク大司教はバチカンのローマ法王とも親しく、もし彼がルクセンブルクを占領しているナチスを認めれば、バチカンとナチスの関係がより一層深まるわけである。そして、クレーマーが万が一逃げた場合はダッハウの神父たちは皆殺しにされ、逆に大司教の懐柔に成功すれば神父たちは解放される。猶予は9日間。もし失敗すればクレーマーは再びダッハウへ戻らなければならない。
冒頭ではダッハウでの過酷な強制労働の様子やポーランド人神父の虐殺が描かれ、収容所の描写として、その過酷さが上手く描かれていると思う。無論、アウシュヴィッツのユダヤ人たちを描いた
「サウルの息子」みたいな圧倒的な臨場感はないけど(「サウル」は別格だから比べたら気の毒か)。
冒頭、重労働に苦しむクレーマーにノルウェー人神父がわずかな水を分け与えるシーンがある。そして、帰国を許されたクレーマーが汽車に揺られていると、向かいの少年が彼にパンを分け与えてくれるシーンがある。さらに、親衛隊少尉からもらったチョコレートを、クレーマーが道で遊ぶ幼い少女に与えるシーンがある。施しの重要性が強調されるが、映画が進んでいくと、クレーマーは最初に水を分けてくれた神父が弱っていた時に、彼を見捨てた過去を抱えていることがわかる。
ところで、聖職者だからみんな強制収容所へ送られたわけではなく、反ナチ的発言や行動によって収容されたわけで、主人公のクレーマーもパリでパルチザンと接触指導していたことがある。まあ、神を信じる宗教者であれば、ナチスの人種思想に反感を持つのは当たり前だろうけど。そんな彼が釈放されたのは、ルクセンブルクの大司教とのつながりがあるのと、彼の家族がルクセンブルク経済界の大物という一族だからである。
ヴィキペディア(ドイツ語)で調べてみると、最初は適当に振り分けられて一般収監者たちと一緒にいた聖職者たちは、1940年末にダッハウに作られた聖職者ブロックに集められたそうで、収容延べ人数は2700人ほどだった。そのうち1000人余りが死亡(死亡率45%強)した。国籍別ではポーランド人が65%強。ポーランドはカトリック国で、そこでの神父の影響力は非常に高かったから、スラブ民族を奴隷化しようとしたナチスにとってはインテリたちと同様、邪魔な存在だったわけである。だから、この映画の中でもポーランド人神父が虐待の末に残虐に処刑される。まあ、それでもドイツ国内の強制収容所は、アウシュヴィッツを始めとするドイツ国外の強制収容所よりはまだマシだったそうだし、そんな中でも聖職者ブロックの収容者たちは、一般の収容者たちに比べればずっとマシだったそうだ(死亡率45%強でも!!)。特にカトリックの場合はバチカン(=ローマ法王)のプレッシャーがあったようで、ミサ用にワインが出たりビールが出たらしい。
さて、この映画のキーワードは「ユダ」だ。慇懃でありながら峻厳という、いかにもナチエリートの雰囲気を持った親衛隊少尉は、もともと神父になろうとしていたのに、それが実現する直前に親衛隊に入隊したという経歴で、論文のテーマもユダだったという設定。しかもルクセンブルク大司教を懐柔できなければ、自分自身が東欧の強制収容所に左遷させられることになっている。だから彼も必死である。というのは、彼は一度すでに強制収容所で働いていた過去があるからである。とは言っても、エリートだから強制収容所で働いていたという過去も、看守とか、そういう下っ端だったわけではなかったのだろう。本人も、そこで自分は何もしなかった(=囚人を虐待・殺害しなかった)と言っている。ただ、何が起きているかは見ていたと言っている。
さて、その少尉は主人公クレーマーにユダになれと言う。もちろん、ユダはイエスを銀貨30枚でローマに売り渡した裏切り者である。だけど、逆説的に考えれば、ユダの裏切りによってイエスはキリストになったとも言えるわけである。このようなユダの役割は、最近のユダ福音書の発見による後付けで(拙ブログでも
小嵐九八郎の「天のお父っとなぜに見捨てる」で、こうしたユダの役割について紹介したことがある)、ナチスの時代にこんなことをいう人はいなかったんだろうと思うけど。要するにユダがいなければイエスは殺されなかったし、その後の弟子たちの布教と殉教死もなかったわけで、キリスト教という宗教が成り立ち得なかった。つまりユダはイエスを裏切ることにより(神の意思だ!)、イエスを永遠なものにするとともに、キリスト教を成立させる、という複雑な役割を担ったというわけである。
つまりここには、少尉自身が、神父になる直前に教会を捨ててナチに加わったという意味で、神に対して負い目があり、また他方で、主人公のクレーマー自身が、苦しい時にコップ一杯の水を分けてくれたあのノルウェー人神父が弱っている時に、労働現場で見つけた水(壊れた水道管から垂れる雫に過ぎないのだが)を分け与えなかった、という負い目を抱えている。そして、少尉は、あのまま神父になっていたら何もできなかったが、ナチスに入党することにより世界史に名を残すことが出来ると夢想する。つまりユダが裏切ったことによってキリスト教が成り立ったことと自らを重ねている。
友を見捨てたクレーマーにも、個人的なナチへの反感を捨てて(つまり神父としての良心を捨てて)大司教を説得すれば、彼の家族はもちろん、収容所にいる神父たちも開放すると約束される。さて、クレーマーは自らの意思を裏切るユダとなって、ルクセンブルク大司教を説得するのか、それともダッハウへ戻ることになるのか? って、まあ、戻るに決まってますわなあ。
映画のテーマとしては地味(だから日本では公開されなかったんだろう)だけど、個人的にはかなり面白かった。特に親衛隊役のアウグスト・ディールがはまり役だった。彼もルクセンブルク大司教の懐柔に失敗したので東欧の強制収容所の高官として左遷させられ、戦後は戦犯として処刑される運命が待っているのかもしれない。一方、主役のクレーマーをやったウルリヒ・マッテスは「ヒトラー最後の12日間」で、全く似てないゲッベルス(笑)をやった俳優だけど、何しろ容貌魁偉、ガリガリの頰と金壺まなこは一度見たら忘れられない。収容所に入れられた神父という役はある意味ぴったりだろう。
映像的にも墓地のシーンの色調を抑えた色合いや、帽子をかぶってマントを羽織ったクレーマーのシルエットなど印象的だった。ルクセンブルクで撮影したのだろうと思うけど、谷間の上にある坂の多い町の風景や建物や橋(?)なども記憶に残りそうな美しさ。監督は「ブリキの太鼓」や「魔王」、「シャトーブリアンからの手紙」や「パリよ、永遠に」のフォルカー・シュレンドルフ。

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