「組織の力学」がオウムを暴走させたのではないか、麻原と弟子の間で相乗効果でエスカレートして行ったのではないかという仮説は、
前作「A3」で十分納得いくレベルにまで言い尽くされている。その点で新しい視点はない。
この本では元信者の二人と共に、オウムの信者の目から見た麻原はじめとする教団の内部の雰囲気が伝えられる。森達也のドキュメンタリー「A」と「A2」を見た人なら、あるいはその書物化された同名の本を読んだ人なら、出てくる信者たちが、誠実で上にふた文字つけた方がいいぐらい真面目な好青年たちばかりなのに、なぜ彼らがそこまで麻原を絶対的に信頼しているのか納得いかなかったのではないだろうか。
この本でも元信者の二人は麻原がやったことは別にして、宗教者としての麻原に対する強い信頼感は相変わらず持っている。これをマインドコントロールとか洗脳という言葉で片付けるのはおかしいだろう。
ただ、彼らが語る麻原のエネルギー(瞑想している時にもそばにいるだけで感じられたそうだ)という話は、僕には全く理解できないけど。例えば、霊の存在を信じるだけでなく、それが見えることがある、という人がいるけど、それを見ることができないし、そういう現象に出くわしたこともない僕としては全くそれは信じられない(だからと言って完全否定するつもりはないけど)。そんな感じだ。
信者二人は一生懸命、麻原が仮にサリンを散布させたとして、それは麻原のどう言う意図に基づくものなのかを、オウム真理教の教義を説明しながら語るのだけど、一般人には全く通用しない話である。森からも否定的な反応しか出てはこない。
だからこそ、そうした真面目な、宗教的な、言葉を変えれば自らの解脱や人類の平和を本気で考えるような若者たちを魅了した宗教者としての麻原が、なぜ地下鉄サリン事件のようなとんでもない事件を起こしたのかを、はっきりさせなければならないはずなのだ。一審だけで麻原の死刑が決まってしまって、結局オウム事件とはなんだったのかがわからないままなのは、今後のためにも全くならない。麻原に本人の口から、なぜサリンを散布したのか、本当に麻原の意思でそうしたのかの説明をさせなければならなかったはずなのである。
日本人は事件の真相にしっかりと向き合って、そこから何かを学ぶことが苦手なのではないか、そんな気もしてくる。臭いものに蓋、そんな言葉が思い浮かぶ。
麻原は裁判の途中から完全にまともな精神状態ではなくなった。それは各メディアのオウムを追っている記者たちと、森が個人的に話をすれば、みんなが麻原の精神崩壊を認めて、麻原はもうダメでしょう、などと言う。なのに、実際に記事として出てくる言葉は「ニヤニヤ笑う」とか「ブツブツ意味不明のことを言う」と言って、本当の意味での精神錯乱という言葉は絶対に使わない。
森がいうオウム事件の核心が、麻原を「忖度」した弟子たちと、弟子たちの思いを「忖度」した麻原との相互作用によるものだとすれば、このマスコミの態度にも、検察(=民意)に対する「忖度」、「組織の力学」が見られる。
しかし、勘ぐれば、何かもっと表に出てはまずいものがあるので、検察も司法も大慌てで臭いものに蓋をしたのではないか、そんな思いすら湧いてくる。

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