フィリピンに慰安婦像が建てられたことを遺憾とする読売の社説である。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20171214-OYT1T50148.html「1942年から45年までの占領で、フィリピン各地に慰安所が設けられた。一般女性が一部の現地部隊によって暴力的に拉致されたケースも報告されている」が、「日本政府が95年に設置した「女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)」は、元慰安婦らを対象に「償い」事業を実施した。フィリピンでは実施国・地域で最多の211人に償い金200万円などが支給された」のだから、今更慰安婦像を作るというのは「日本の名誉を不当に貶めたり、周辺国との関係を傷つけたりする動き」であって許せない。「新たな像の設置を食い止めるための一層の外交努力が欠かせない」
と言っている。(僕はそう読んだ)
何かどうも腑に落ちない。このような主張の前提には、2年ほど前の日韓慰安婦問題合意があるのではないだろうか? あの時安部は「お詫びと反省」と言った。そしてそれに続けて「私たちの子や孫、その先の子供達に、謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」と言ったのだ。
あの時にも書いたが、国を代表するものと国民との違いを無視したごまかしが感じられる。国民を国と一体化させたいと思っている権力者たちと、その単純化の図式に乗って「日本すごい = 俺ってすごい」と言いたがっている人たちの勘違いが一つになっている。
「ひとびとはもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく」(辺見庸)
国の名の下に強制的に慰安婦にさせられた人たちがいた。これは間違いない。上の読売の社説でもそれは認めている。安部もだからこそお詫びと反省と言ったのだ。安部が個人的にお詫びして反省したのではない、国としてお詫びして反省したのだ。だけど、国民が、戦後生まれの僕らが、それを謝罪する必要はないのは当たり前のことだ。だけど、それを知らないのはまずいだろう。まずは国が率先して知らせるべきなのだ。
何度も書いてきたけど、立場を変えてみればよくわかることだと思う。原爆のことを今の若いアメリカ人に謝ってもらおうとは、多分誰も思わないだろう。でもその若者が原爆のことを知らなかったら不愉快だろう。
このところ慰安婦像のニュースがあちこちの国から届いている。理由はこういう日本の態度だ。金は払った、謝った、もういいだろ!と言ってる裏で、橋下に代表されるように慰安婦否定の世論が勢いを増し、それに乗じて国会議員たちの中にも、否定的なことを言うような議員が出ている。これでは相手も強硬になる。
南京事件だってそうだ。中国が主張する30万人がおかしいというのなら、きちんと議論していけばよかったのに、0だと言うような奴が議員の中にも出てくる。それなら、とばかり、相手だって30万の数字を言い続けざるをえない。
尖閣を思い出す。石原慎太郎が東京都が買い取ると言い出し、野田がそれに乗って国有化と言い出した。1970年代に、将来の頭のいい人たちにお任せしましょう、と日中両国で阿吽の呼吸でバランスを保っていたのに、あれで完全に中国がキレたわけだ。
読売の言う「外交努力」とは具体的にどういうことをしろと言っているのだろう? 外交努力ではなくて国としての姿勢が問われているのではないのか?

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト