トランプがどっちもどっちという低劣な相対主義にしてしまったおかげで白人優位主義者たちが一層勢いづいている。外から見れば、白人優位主義なんてものが真っ当なものではないのは誰でもわかるだろう。
都知事の小池が、これまでの慣例を破り、関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付をやめたおかげで、ネトウヨや歴史改竄主義者たちが一層勢いづいている。
関東大震災での死者は国籍を問わず多かったから、すべての死者への法要を行うために、特別な形での追悼文は提出しないそうである。
とんでもない間違いである。
僕だってすぐにわかる。震災で亡くなった人と、流言飛語により虐殺された人とはまるで違う。震災で亡くなった人を慰霊するのはわかる。しかし流言飛語(しかもその情報源が官憲だった可能性も高い)で殺された人に対しては謝罪も込めて慰霊しなくてはダメだろう。
虐殺などなかったと主張する人もいるようだけど、これはもう信じられない話で、最近も1100の証言集が出ているし、少し前にNHKのETVでも扱われていたが、これだけ証言者がたくさんいるのになかったというのは、証言している人たちは嘘つきであると言っているわけである。
なんだろうなぁ、ゆがんでいるよね。美しい国ニッポンと言いながら障害者を虐殺した奴もいたけど、関東大震災で朝鮮人虐殺はなかったと言い張りながら、良い朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せとシュプレヒコールする連中もいる。
ネトウヨにせよ歴史改竄主義者たちにせよ、犠牲者の数を問題にする。だけどこういうケースで正確に数字などわかるはずがない。310東京大空襲での犠牲者は10万人以上とある。広島の場合、広島市の公式HPでは「原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています」とある。数字はあくまでも数字に過ぎない。
以前にも拙ブログで書いたことだけど、堀田善衛の「時間」に、こう書かれている。
「死んだのは(。。。)何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある」(新潮文庫「時間」p.57)
あるいはエルマンノ・オルミ監督の映画「緑はよみがえる」の中で隊長が叫ぶ声。
「死んだものの名前をリストアップせよ。死んだものの数ではないぞ、一人一人の名前を書き出せ」
こういう想像力を持たず、単に死者を数字にして、多い、少ないと言い合いながら、人が殺されたことを些細なことに、場合によってはなかったことにしたがる。これって海外から見ればまっとうなものじゃないのは誰にでもわかるだろう。
……追記 2017,8/29, 12:52……
歴史修正主義という言葉、想田和弘さんの言葉に従って、歴史改竄主義(れきしかいざんしゅぎ)という言葉に差し替えます。

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