生命が誕生して以来、周期的に生じる生物の大量絶滅の話、つまり古生物学の話かと思って読み始めたけど、強烈な現代社会批判の書だった。特に原子力というものが「賢者でも哲人でもない普通の人間の手元に残され」(p.13)たことで、人類はのっぴきならぬ事態に追い込まれている。
内容が、数式なんかも出てきて、文系人間には難しいところもあったけど、文章として、あちこちにちりばめられた比喩が秀逸。また、紹介される個別のエピソードもとても面白いし、ここで展開される現代社会批判も納得いくものばかりである。
著者は最終的に「見えてくる眺望は最悪のシナリオになる。しかし、そのシナリオを最も深刻な形で素描することによって、その傍らに一つの希望が見えるようにしておきたい」(p.14)という。その最悪のシナリオはこんな感じ。
「いつか地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になるだろう。人間が何をしようが(あるいは何もすまいが)その未来は必ず訪れる。ただ、遅いか早いかの違いだけだ。それゆえ、我々人間にできることがあるとすれば、終末の景色を急いで手繰り寄せるか、あるいは可能な限り遠ざけようとするかのいずれかである。あるいはその選択すら避けて、何の根拠もなく同じ日常が永遠に続くと信じることも可能だろう。その選択が最悪の手にならなければ良いが。」(p.84)
僕らの想像を絶する未来の話だと思っていたSF的な終末の姿は、実はこの先数百年、ひょっとしたらもっと近い将来の話なのかもしれない。ネイティブアメリカンのナバホ族の言葉に7代先のことを考えて行動しろ、というのがあるが、今こそ、僕らは7代先のことを考えなければならないのだと思う。
そして、「人間は進化の目的でも終着点でもない。人間に何か特別な使命があるわけでもない。人は内輪の目的を追求しているだけであって、宇宙や自然の観点からは人のどんな活動にも価値はないし、どんな人生にもそれ以外の意味はない。」(p.177)
僕もこれには強く同意する。僕らがやっていることに何かの価値があるわけではない。これは常に意識していなければならないと思う。相模原の障害者虐殺事件で、犯人は重度障害者には価値がないというようなことを言ったそうだ。そして、それに同意する人もたくさんいるらしい。バカなことを言ってはいけない。宇宙や自然という大きなものを考えた時、どんな人間にも価値などない。
だけど、ここから簡単に、「だから何をしても無意味だ」というニヒリズムに逃げるのは安易すぎる。逆である。だからこそ、人間の命はどれも大切なものなのだと思う。何十億年にもわたって進化してきた生命の歴史を考えた時、僕が今ここでこうしてキーボードを叩いていることに何の意味もない。いずれ、おそらくそう遠くない将来「地球は窒素と毒ガスの大気に包まれた岩の塊になる」のかもしれない。だけど、だからこそ、ここでこうしてキーボードを叩いているこの一瞬が大事なことであるとともに、この一瞬がとてもいとおしく思えてくる。

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