うーん、こういう映画を好きだというのは、何か高踏的でペダンチックな感じがして、ちょっといやらしいのかもしれないけど、僕は好きだ、大好きだ。
冒頭、アップの馬車馬を離れたり近づいたりしながら5分以上にわたって延々と移動撮影。ワンシーンで右手の不自由な老父の着替えを娘が手伝う一部始終を延々と写す。あるいは馬を馬車につなぐために馬具をつけるシーンを延々とやはりワンシーンで写す。あるいは暗い室内でじゃがいもを食べるシーン。窓から外を眺める娘の後ろ姿を1分以上動きのないまま写す。おそらくほとんどのシーンが5分前後の長いカットでできているんじゃないかと思う。
推測がつくように、ソファに座ってゆったりと見ていると、あっという間に睡魔が襲ってくる。ただ、画面の重厚さは半端じゃない。室内も風景も荒寥感がすごい。外はゴウゴウと台風のような風が吹く。室内は石を積み上げた壁のところどころが割れて削れていたりする。
ストーリーは、19世紀末、荒涼とした土地にポツンと立つ家で、老父と娘の生活がどんどん苦しくなっていく6日間を描いている。馬が食事をしなくなり、井戸が枯れ、かまどの火が消え、ランプも点かなくなる。家を捨てどこかへ引っ越そうとして、馬車に荷物を載せて馬を引きながら娘が馬車を引っ張っていくが、理由はわからないが、すぐに戻ってくる。じゃがいも一つだけの食事も、かまどの火が消えたせいで、最後は生のままかじらなければならなくなる。この最後のシーンも、父が左手だけで爪を使ってじゃがいもの皮をむいている間、多分5分近く、向かいに座る娘は瞬き以外微動だにしない。ものすごい緊張感。父がじゃがいもをかじるとシャリリと音がし、さすがにじゃがいもを皿に置いて、二人ともにじっとしたまま部屋はゆっくり暗くなり、やがて真っ暗闇の中、しばし間をおいてエンドタイトル。
映像として、
以前拙ブログでも紹介したカール・テオ・ドライアーの白黒映像を連想した。そして何度も繰り返される着替えと食事のシーンに、月並みだけど人生ってこういう単調なことの反復なんだと思わさせられる。ミニマル音楽のような繰り返しの重厚なテーマ音楽もそれを補う役割を担っているのかもしれない。
映画の冒頭に哲学者ニーチェの発狂した時の様子がナレーションで語られ、その時ニーチェが抱きついた馬の後日談がこの映画の馬だと暗示される。だとすると、繰り返される日常の苦役はニーチェの永劫回帰という奴の暗示なんだろうか? 物の本によると、ニーチェの永劫回帰は生の完璧な肯定だそうだけど、この映画で描かれる生はむちゃくちゃ暗い。外は強風が吹き荒れ、馬は病気で、水もなく、火も消え、食べるものもなく、この後父娘はどうなってしまうのだろう。よくよく考えると、胸が締め付けられるほど辛い映画である。ただし、見るならそれなりにこちらのテンションを上げておかないと必ず寝る。

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