僕は1976年に選挙権を得たけど、当時、選挙でどこに入れていたか、誰に投票したかは、実はあまりよく覚えていない。
当時の僕の大学は、正門前にゴザを引いて、「●●学部、何の誰べえ、学費値上げを当局が撤回するまでハンスト決行中」と書いた看板を立てて座っている人がいたり、4年間で2回もロックアウトになって試験がレポート試験になったりするという、70年代半ばになっても、まだ学生運動の激しかった大学だった。当時の狭く汚い中庭には立看板が並び、時々ヘルメットをかぶった連中が集まってシュプレヒコールを叫んでいた。学生部の教授が台の上で吊るし上げにあっているのも見たことがある。吊るし上げって言っても別に絞首刑になっちゃうわけじゃないよ。また、帰宅してTVをひねったら夕方のニュースで見覚えのある汚い中庭が映し出され、内ゲバ(こんな言葉も今の若い人たちにはわかるかなぁ)で死者が出たと報じられていたこともあった。
だけど、実際は、政治の時代はとうに終わり、ほとんどの学生がいわゆるノンポリだった時代。共産党の青年組織に所属している友人もいたし、創価学会のクラスメイトからは選挙前には電話がかかってきたけど、生返事をしてあしらっていた。さすがに革マルや中核みたいな過激派の友人や知り合いはいなかったが。
棄権は一度しかしなかったと思う。
以前書いたように当時は卓球に夢中で、同好会だったんだけど、リーグ戦と選挙が重なって、棄権したという記憶がある。
では、普段はどこに投票していたんだろうか? 多分社会党に入れていたと思うけど、それに何か理由があったかと言われると、よくわからない。心情左翼という言葉が自嘲気味とはいえ、普通に言われていた。共産党は入れたことがあったかもしれないけど、自民と公明には入れたことはないと思う。まあ、その程度のリベラルということだったんだろうけど、要するに何もわかっていなかった。ただ時代の空気は「反権力」だったと思う。僕も当時の空気に流されていた、といえばそうだったのかもしれない。
というわけで、まさにその時代に各地で発生した革新自治体の栄枯盛衰と、その意義を書いたもので、読んでいて、僕の世代としては、なるほど、そうだったのか、と思ったりするところが多かった。名前も当時聞いた名前がたくさん出てきて、今年60になった僕にはすらすらと読めた。
先日、革新都政を望むと書いたら、コメントでネトウヨに絡まれたが 笑)、そこでの美濃部批判が、公営ギャンブルを廃止してパチンコを野放しにした、という呆れるような頓珍漢さ。
そこじゃないだろ、批判するのは!!
結局批判できる事柄(=理解できる事柄)が、あのネトウヨ氏にはここしかなかったんだろう。ただ、きっとネットにはこういう低レベルの、サルでもわかる批判が蔓延しているんだろう。安倍のやり方だって、まさにそうだしね。ヒトラーは大衆はバカだから、同じことを何度も繰り返さなくてはならない、聞いている人間のうちで一番物分りが悪い者のレベルで話をすべきだと言っているけど、今の日本でもそれが通用しちゃうんだね。
当時批判としてよく言われたのは、福祉と公務員の人件費が財政難を引き起こしたということだった。だけど、福祉や保育所、環境問題(公害問題)を国に先駆けてレベルアップさせたという功績は、絶対にあった。美濃部都政があったおかげで、老人や障害者や公害に苦しむ人たちがずいぶん助けられたのは間違いない。
当時を回想した政策室長の文章には「『おかげさまで、私が死ぬ前にこの子を殺さないで済みました』と、知事宛に寄せられた手紙を、私は目頭を熱くしながら、何通読んだかわからない」(p.88)とある。
また、美濃部は「バラマキ」という批判に対して、こんなことも言っている。「財政危機(の)ニューヨーク市の福祉予算は総予算の30%をしめるのに対し、東京都のそれは、(。。。)未だに12%に過ぎません。(。。。)誤解を恐れずに言えば、東京の、そして日本の福祉は、もっともっとばらまかなければならないのであります」(p.161)
無論良いことばかりではなかったのは当たり前の話だが、しかし社会党内の左派と右派による権力闘争、共産党との軋轢、中道と言われた民社党や公明党のヌエのような、その場その場で、権力に近い方へすり寄ろうとする姿勢、自治省のデマを含むバッシング、さらには、市民参加という理想を掲げながら、有権者たちのおまかせ他人事の態度のはざまで、潰えるべくして潰えたのが革新自治体だったのだろう。
当時の高度経済成長の歪み(公害、社会資本未整備、福祉の遅れ)に気づいた人々が選んだ革新自治体に対して、現在、グローバル化の歪みで、人々が選んでいるのが、限りなくファシズムに近い方向だというのは(それも日本だけではない)、これはどう考えればいいのだろう?
副題の「熱狂と挫折に何を学ぶか」というメッセージは、言うまでもなく現代にも通じる。先日の
川上弘美の「大きな鳥にさらわれないよう」にもあったように、なにしろ人間は同じ過ちを何度でも繰り返す学習能力のない生き物なのだから。
…
追記(2016、7、26、15:45) 文言を付け加えました。

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