表題はおなじみの友川カズキの「家出青年」の中の言葉だ。すでに拙ブログでは一度 YouTube を貼ったけど、もう一度。
この曲の歌詞の後半は、この曲が最初に発表された時にはなかった。この人の曲はどれも全く古びないけど、こういう原発後にできた詩を付け加えても、まるで齟齬がないことに驚く。
付け加えられた後半の詩はこんな。
……
最なる時の最中(さなか)にあって
人どちは皆一様 寒立馬である
寒げな寂しげな風である
「次世代のため」なぞと言うから
滑稽になっちまう
「負の遺産」なぞと括るから
たいがいになっちまう
原発だろうと何だろうと
イヤなモノはイヤだと声を成せばいい
色素のない奥ゆかしき美意識なぞ
そんじょそこらの
ニワトリのフンですらない
君よ 君よもしや
かつてこの国には
真っ青な翼の鳥がいた
「貧困が暴力」なら
無知も暴力である
悔しき暴力である
……
最後の「貧困が暴力」というのはネットなどで調べるとガンジーの言葉のようだ。もっともガンジーがこの言葉を発したかどうかは、ちょっとよくわからないんだけど、貧困を強いる先進国によるインドの貧しい人々に対する暴力という意味で考えれば、この言葉の意味はピンとくるだろう。
暴力というと文字通り直接的な虐待を連想するけど、いわゆる構造的暴力というものもある。ヴィキペディアにはこんな風に出ている。「行為主体が不明確であり、間接的・潜在的に降りかかる暴力の形態を構造的暴力と呼ぶ。具体的には貧困・飢餓・抑圧・差別などがこれに当たる。」
これを前提に「無知も暴力である」という言葉を考えると、原発の危険性を知らせてこなかった連中による国民に対する暴力という流れで考えればわかりやすい。
だけど原発に限るものではないだろう。その前の「真っ青な翼の鳥」が暗示しているものはもっと普遍的な、ポジティブなものだろうと思うし、そこから考えられる「無知」は、特に今の日本のことを考えると、原発に限らずもっといろいろなものが含意されているのではないだろうか。
無知でいいや、面倒くさいもの、と考える人が多いのだろうけど、それは暴力を甘んじて受けているということなんだ。侮辱されているということなんだ。

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