表題を読んで、煽っている、またブサヨがなにか言っているとスルーする人もいるんだろうなぁ。
年末に読んだ辺見庸の「1☆9☆3☆7☆」にあった「人々はもうなんどもクニに捨てられているというのに、「便所の蠅のやう」に、クニにへばりつく(。。。)どうして人というのはなにごともいちいちゼロから学ばなければならないのだろうか、歴史はなぜ前代の反省と学習をひきついで後代に活かそうとしないのか。どうして人はこうまで歴史的経験から出発することができないのか」(原文の平仮名を漢字に変えたところがあります)という言葉が気になっている。
言うまでもないことだけど、人ではないものでありながら何事かを決定するクニというものは、本来何のためにあるのか? 拙ブログのエピグラムにあるように「強い者がより強くなる」ためにあるわけではないはずだ。そして過去を振り返ってみれば、戦時中の満州や沖縄、広島や長崎。。。「人々はもうなんどもクニに捨てられている」
広島で原爆について質問された昭和天皇はこう言いはなった。「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます」。日本の象徴が、自分が開戦の詔勅を出しておきながら、まるで他人事。
そして福島の原発事故ではまだ十万以上の人が仮設住宅に住んでいるのに、オリンピックのためなら兆の単位の金が準備される。「人々はもうなんどもクニに捨てられている」
それなのに「愛国」という言葉が出てくるともう判断停止して、やたらと好戦的な人がいる。大岡昇平の「野火」にもこんな言葉がある。「現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたい人たちを私は理解出来ない」
大岡の時代には戦争を操るのは「少数の紳士諸君」にすぎなかったんだろうけど、武器を開発したり輸出して金儲けができる時代になってしまった。むろん彼らとて日本が戦争に巻き込まれても構わないとは思っていないだろう。だけど、今回の戦争法案で日本人の若者が近い将来、地球上のどこかで殺したり殺されたりする可能性はかなり高いだろう。戦場へ行くのはいつでも若者だ。
これに関連して、これも前にも書いたことがあるけど、古処誠二の「敵影」という小説の中にこんな台詞がある。「特攻など、どこの国の軍隊が正式化できる戦法だろう。これは(若者の)死を受け入れる心と、その心に甘える(老人の)卑しさがなければ成立しえない」(括弧内はアンコウの補足)
この小説を読んだ当時はこの発想に驚いたが、今は特攻作戦に、こういう老人と若者に信頼関係があったかのような文言はやや美化されすぎだと思う。むしろ老人たちは若者たちを取り替え可能なパーツのように考えていたのだろう。
いずれにしても、自分たちが利益を得るためなら戦争で若い人たちが多少死んでも構わないと思っている老人たちに欺されていいのか? 若い人たちよ!

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト