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堀田善衛「時間」など

2015.09.30.00:00

南京虐殺はなかったとか、日本軍は世界一立派な軍隊だった、なんていう言葉がネット上のあちこちに見られる時代になってみると、実際に日中戦争を体験した小説家たちが書いたものはなんにもならなかったのか、とがっかりする。人間は過去に全く学ばない。過去を知ろうとしない。自分の信じたいことを過去に重ねたがる。雑誌「週刊金曜日」に辺見庸が連載していた「1937」に導かれて何冊かの本を読んだ。


堀田善衛の表題の小説の主人公は1937年末、南京に住んでいた中国人の富裕階級のインテリで、身重の妻と5歳の子供を日本軍によって殺され、虐殺された同胞の死体処理をさせられたあげく、自らも処刑されるところを偶然に助かり、密かにスパイ活動を続けながら、日本軍の元大学教員だった情報将校の召使いとして働いている。それが主人公の日誌の形で綴られていて、起こった事件の描写以上に観念的な思想が大部分を占めているので、ある意味では非常に読みにくい。観念的な表現が多く、戦争の臨場感はかなり薄いし、リアリティがあまり感じにくい。むしろ従妹からの伝え聞きの部分で語られる、黙々と焼き物を壊すロイド眼鏡の日本軍将校の話などに、かなり不気味なリアリティを感じる。

南京虐殺の「被害者の数」がしばしば論争の的になる。だが、その正確な数についてはもう永久に分からないのだろう。だからそれをよいことに南京虐殺はなかったなどと言い出す輩(やから)も出てくる。だけど、たとえば実際に日中戦争に従軍した石川達三の有名な「生きている兵隊」だけでも読んでみれば、いわゆる「皇軍」はとんでもないことをしたのは間違いない。他にも実際に従軍した元兵士たちの証言はたくさんあるわけだし、もし、日本軍が中国で南京に限らず虐殺事件を起こしていないと主張するのなら、日本人はとんでもない嘘吐きばかりだということになるだろう。だが具体的な「被害者の数」となれば分かりっこない。しかし、「数」が問題なのだろうか?

「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、新聞記事と文学ほどの差がある」(新潮文庫「時間」p.57)

こういうことなのだと思う。30万でも3万でも、死んだのは「何万人」という数字ではなく、「一人一人が死んだ」、「一人一人の死が、何万にのぼったのだ」。



他にも古山高麗雄の「二十三の戦争短編小説」や富士正晴の戦争小説も読んだ。古山高麗雄の小説では死んだ妹への空想の手紙を書き続ける兵士の「蟻の自由」が圧倒的に感動したけど、あちこちで徴用という言葉に欺されて連れてこられた朝鮮人慰安婦の話が繰り返される。また、二十三の、とあるけれど、実際はほとんどが現在の目から戦争を振り返って見たエッセイのような、私小説のような短編小説群である。

富士正晴の小説は、どこか語り口にとぼけたようなユーモアがあるのだけど、書かれている内容は言い逃れの出来ない皇軍の悪辣非道な犯罪行為。特に強姦のありふれた様相。小説の中の登場人物たちはこんな台詞を吐く。

「余り暇なので、今から思ったらどうしてあんなことしたかと思うようなこともした。ぞっとするね。ぞっとするが、やってる時は平気だった。」(「ちくま日本文学全集 富士正晴」p.146-7)

「女を襲いそれを犯すということは男にとってむしろ手柄話の気味を帯びるものであることがわたしにはこわかった。そのくせ、わたしは女を襲いそれを犯すということをしなかったわけではない。ただわたしはそれによって手柄話の一つを加え得るような心理にならず、むしろはかなさを切実に感じた。犯した自分も犯された相手もはかないものに見えた。」(同 p.202)

念のために言っておくが、小説だから作者の想像、つまりウソだ、と言ってすましてしまう人はまさかいるまい。こういう日本軍のやったことに対する認識は、僕の世代ぐらいだとごく普通に持っていた。大江健三郎のなにかの小説にあった言葉だと記憶しているけど、ある時代の日本では、男が数人集まれば、その中の何人かは人を殺したことがあったのである。古山高麗雄は戦後何年も経ってから「過去」というエッセイ風の小説の中でこんなふうに書いている。

「私は、私と同年配の、秘密を墓場にまで、誰にも語らずにかかえて行く男の姿を思う。悪いのはみんな戦争なんだ、とお定まりの文句を言ってみても、本人としては、人によっては何かがのこる。人柄に人気のある会社のお偉いさんが、もしかすると、(。。。)安易に殺すべき相手ではない人を一人、あるいは数人殺していて、戦争のせいだけにはしきれないでいる。あるいは、何とも思っていない。お偉いさんのなかにも、そうではないお父さんのなかにも、五十年前に、中国人の少女を、あるいは老婆を、強姦した人がいる。それを妻子に秘匿して、しかし、戦争のせいだけにしきれないで、たまに、ひそかに思い出す人がいる。思い出して、ある人はいささかつらい気持ちになる。だが、それはほんのちょっぴりだろう。他人事のようにしか思えない人もいる。何も感じない人もいる。まだ私が三十歳前後の、戦後いくらも立っていない頃、つらい気持ちになるどころか、自分が行った殺人や強姦を、得意げに話していた奴がいた。そういう奴もいるが、死ぬまで隠し通そうとする人もいるだろう。」(文春文庫版「二十三の戦争短編小説」p.564)

ある意味ではこうして皇軍がやったことは各自が墓の中まで持って行ってしまった。おかげで現在の最初に書いたような体たらくだ。だが、彼らを僕らは責められるだろうか?

武田泰淳に「汝の母を!」という短編小説がある。これも辺見庸の連載から教わったものだが、ネットでも読める。ここをクリック。この小説についてはもう言葉もない。内容をここに紹介するのも勘弁してほしい。そして、自分がその場にいたらと想像する。せめて「『ほんとにひどいよう。やれって言う方がムリだべよ』」と「困り切ったようにつぶや」くことが出来ていただろうか。そして、上の古山の言葉のように、戦後だいぶ立ってから「思い出して、(。。。)いささかつらい気持ちに」なったのだろうか。

これはものすごく辛いことではあるけれど、僕らの父祖がこうしたことをしたというのは否定しがたい。だけど、実際に戦争に行っていない僕らは、そうした父祖を軽々に非難することなどできない。しかし彼らがしたことを知っておかなければならない。そして、戦争になれば誰でもそうするということも。だからこそ戦争はしてはいけないのである。

----2015、10/25----
いくつか加筆・変更しました。



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アンコウ

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あんけ・たつや。欧州ロードレースに興味を持ってすでに30年以上。主にドイツ人選手を応援。特に青田刈りにいそしむ。歳にも関わらず、あらゆる点ですごいミーハー。そのほか好きなものは、読書、クラシック音楽(特にバッハ)、友川カズキ、北方ルネサンス絵画、映画、阪神タイガース(村山、江夏以来ですが、強すぎないこと希望、弱すぎても困るが)。少し前から草食動物と化そうと努力しています。北欧の社会民主主義に対する憧れ強し。家族構成は連れ合いと娘三人。

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