大岡昇平の原作のストーリーをかなり忠実に辿っているけど、やっぱり原作の大きなテーマになっている神さまに関することは出てこない。そもそも題名の野火が神の暗喩ではないかと思うのだが。。。誰も見てなくても、神さまは常に見ているよ。僕も子どもの頃クリスチャンの母親からおどかされたものだった 苦笑) 野火は主人公につきまとう。行く先々で野火が上がる。それは抗日ゲリラのノロシかもしれないし、農民が単にたき火をしているだけかもしれないのだが。
だから原作の、山の斜面から下を見下ろして何か光る物があり、それが教会の十字架だとわかってそこへ向かうシーンはない。教会も出てくるが、「デ・プロフンディス(深き淵よりわれ汝を呼びたもう)」の詩句を我知らず口に出すシーンもない。
それから原作では死を覚悟しながら彷徨する主人公はかなりのインテリで、いろんな思弁を駆使する。自分のキリスト教体験について思い出したり、デジャヴ感覚についてのフランスの哲学者ベルクソンの説を思い返して、それに異論を加えたりする。映画はそうした思弁的神学的な面は、昔の市川崑が作った「野火」と同様に切り捨てている。たしかに映像にはしづらいし、キリスト教は日本の観客にはあまりに唐突な印象が否めないということだろう。
なにより映画が目指したのは戦場のリアリティだろうか。木の枝なのか岩なのか分からないような、ウジの湧いた泥まみれの腐乱死体・バラバラ死体が多数散乱し、米軍の銃撃で血が吹き出て脳漿が飛び散る。蠅のブンブンいう音がステレオ音響で、自分の耳の横に飛んでいるようで、思わず手で払う仕種をしそうになった。ただ、こういう戦場のシーンに見慣れてしまったのだろうか? ここにも書いたことがあるけど、白黒の
「西部戦線異状なし」や、CGなどなかった時代のロシア映画の
「炎628」を初めて見たときのような異常な怖さはあまり感じられなかった。
一方で密林と山から見下ろす風景の美しさ、空の青さと雲の白さと戦場の対照は「シン・レッド・ライン」を思い出した。
そういえば、「シン・レッド・ライン」では通奏低音のようにブツブツと独り言のようなモノローグが続いたような記憶がある。この映画でも哲学的・神学的な台詞をもっと主人公に語らせても良かったように思うのだが。主人公が作家であることが紹介されるし、そう考えると、その作家らしさがちょっと足りないような気がする。
ちなみに原作では主人公は作家だとは出ていないと思う。むしろ、発表に当たって削除された前文を信じれば、この小説は田村一等兵が「私」に書き残した文章で、本文中の「私」は田村である、と念押しされていた(これは千倉で恩人の本箱にあった岩波版の「大岡昇平集3」に載っていた。しかし、現行の稿では医者に促されて書いたことになっている)。映画では主人公は大岡昇平と重なってしまうような気がする。
最後に、映画とは別に、原作の最後の方で現代の日本にピッタリ一致する文言を見つけたので引用しておこう。
「この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしてゐるらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼等に欺されたいらしい人たちを私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったやうな目に遇ふほかはあるまい。その時彼等は思ひ知るであらう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。」(37章「狂人日記」より)

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