1946年、ナチスが崩壊してすぐに一気呵成に書かれた大傑作長編小説です! 先ほど読み終わったんですが、最後の「アンナ・クヴァンゲルの再会」の最後のところでは嗚咽が漏れそうになりました。事実に基づいているこの小説の結末はわかりきっていることだし、主人公たちを待っているのは残酷な運命であることを知っていても、前半は読み物(サスペンス)としても、ものすごく面白いです。
主人公の寡黙で堅実で頑固な家具職人の夫とその妻は、フランスが降伏した日、つまり1940年の6月に一人息子の戦死の報告を受けて、ナチスに反対する文言を書いた葉書をビルなどに置くことを決意し、それから2年にわたってゲシュタポの必死の捜査の中、それを続けます。
今の僕らの感覚ではナチス反対のビラをそっと置いてくるだけなんて、なんとまあショボいレジスタンスだ、と呆れるかも知れませんが、当時のドイツではこれだけで完全な国家反逆罪(=ギロチンによる死刑)でした。映画にもなっていて有名なショル兄妹も同じ罪で死刑になっています。
最初に書いたように前半の主人公夫婦とゲシュタポの捜査はハラハラドキドキで一気に読ませますし、それと平行して描かれるどうしようもない二人の男とその妻と子供のエピソードも後々につながる伏線になり、とてもうまくできています。しかし、後半の数多くの死と拷問の詳細な描写は、正直に言って、読むのかがかなり辛いです。
さて、自分たちの葉書に影響された人々がヒトラーを引きずり降ろして戦争を終わらせることを夢見た主人公夫妻の葉書は、実際には即座に警察に届けられ、何の影響力もないだけでなく、それを拾った人間たちにとってはただの迷惑にすぎず、恐怖と不安を引き起こすだけです。拾った人間たちは、ここにナチスの邪悪な意図があるのではないか、ナチスは自分がどんな反応を示すかを確かめているのではないか、と疑心暗鬼に陥り、最初の数語を読んだだけで当惑し、恐怖に駆られて、ほとんどの人が最後まで読むことすらせずに警察に届けてしまいます。
普通の人たちはみんな、残酷でとんでもない不正が行われていることに気が付いているのに声を上げず、監視や密告を恐れて暮らしています。ナチスの過酷な恐怖政治のなか、狂った世界のなか、孤立無援のなか、自分が正しいと信じた夫婦の行ったささやかな抵抗は、結果だけを見れば、完全な犬死にでした。いや、犬死にどころか、彼らの行為が原因となって、彼らと関係ある何人もの人間が死ぬことになります。ネタバレしてしまえば、この小説の中では、そもそも良心を失わなかった人たちはみな死にます。
だけど、生きるというのがどういうことなのか、何に価値をおいて生きるのかが、ナチスのような極限的な社会では極端なかたちで問われることになるのでしょう。考えることをやめて「従っていればいいんだ。考えることは総統がやってくれる」(p.185)という犬のような生活でいいのか、それとも「死の瞬間まで、自分はまっとうな人間として行動したのだと感じること」(p.502)ができる方が良いのか。ナチスに「黙って同意」し、大切なものを「売り渡し続け」て「ぴしっと折り目のついたズボンをはいて、爪にマニキュアを塗って」生き続けるのが良いのか、それとも「俺は少なくともまともな人間でいられた(。。。)共犯者にはならなかった」(p.559)と死を前にして胸を張って言うべきなのか。「正義のために死ぬより、不正のために生きるほうがいい」(p.503)のか、それとも「生き方を変え」(p.511)て、「全く別の人生」(p.117他)を送るべきなのか。
だけど、その結果として自分だけでなく無実の人間まで巻き添えにしてしまうとしたら、それでも精神の自由を守るために抵抗し続けるべきなのか、そんなものは自己満足に過ぎないのではないのか、そして自己満足のために他の人間を巻き込んでよいのか、しかし、それでは、自らの自由と主体性を放棄して、ナチスに決定権を丸投げした犬の生活に甘んじるべきなのか。それぞれ読んだ人が考えるべきことなんでしょうが、そんな決断を迫られるような社会にならないように祈るばかりです。
少し前に安倍に丸投げすべし、とコメントしてきた「りべおれ」君に、是非とも読んでもらいたいところです 笑)

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