森達也は我慢強いねぇ。明らかに「ネトウヨ」とレッテルを貼れる人物や創価学会員の編集者を含む5人との討論。読み始めてすぐに、この「ネトウヨ」氏はウソじゃないのか、作り物じゃないのかと思った。
変人天才ピアニストのグレン・グールドが、作曲家、評論家、演奏家など一人何役もこなしている冗談みたいな対談があったと思う。この討論はそうした森の一人何役ものウソ対談、ジョークなんじゃないかと思った。それぐらい「ネトウヨ」氏が「ベタ」である。その「信仰」と言っても良い嫌韓ぶりに、僕だったら馬鹿馬鹿しくて相手にしないだろうと思うのだが、森は穏やかに反論を述べていく。途中、反論が足りていないと思われるようなところもあるが、森のやり方は相手を徹底的に言い負かしてしまうというのではなく、相手の逃げ道も用意しておいてやるという優しさがあるんだろう。そういう意味では、隠れたテーマとして不寛容と寛容をめぐって討論されていると言えるこの本だが、森の姿勢もまた一貫して「寛容」をベースにしている。
領土問題、過去の戦争、靖国、従軍慰安婦、死刑制度、原発、捕鯨、憲法9条、マスコミ、宗教など多岐にわたって討論されるが、すでに森の本を何冊か読んでいれば、途中で森の意見がどういう方向に進むかは想像がつく。前から行っているように、僕は森の大ファンだ。森の主張はほとんどどれも完全に納得がいく。以前書いたように、森の本を読んでいると、昔からの気心の知れた親しい友人と話しているような気持ちになる。とくに次のような文章は、本当にその通りだと思う。
たしかに日本は、「過去の戦争であなたたちの国に多大な被害を与えました」と口にしながら何度となく謝ってきた。でも、実際にどのような被害を与えたかについて忘れながら謝られても、心から納得できないことは当たり前だと思いませんか(48)
最後に森は今の世相は『ごっこ』だ。愛国者ごっこだという。そうして、こうした「ごっこ」が本物のファシズムを生み出すのかもしれないという。その通りだと思う。オランダの歴史学者ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」は人間の文化や活動の本質は遊びにあると言っている。こうした「ごっこ」が、映画「エス」みたいに、いつの間にか本気になってしまうのはいかにもありそうなことだ。
売れるからという理由で危機を煽るマスコミ、人は集団化して同調圧力で思考停止になる。するとマスコミもそれをさらに増幅し、互いに相乗効果でエスカレートしていく。さらに○か×かの二者択一という単純化。とくにこの単純化という思考方法は
以前「ヒトラーの演説」でも出てきたが、この討論のなかでも「ネトウヨ」氏がどんなテーマでも単純化したがっている様子がよくわかる。結局敵か味方かなのだ。最後に森は「知り合うこと。名前を呼び合うこと。触れ合うこと」の重要性を強調する。その通りだと思う。
「正義」の反対は「悪」じゃない、「別の正義」だ! というクレヨンしんちゃんのとうちゃんの台詞を噛み締めてもらいたいものである。

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