上巻も下巻もエゴン・シーレのアブナイ絵が表紙で、カバーなしでは電車の中で読めません 苦笑)しかし、同時にこの陰惨で不道徳な小説の表紙としてはこれ以上の絵はないかもしれません。
神さまがいなくなってしまった時代のラスコーリニコフ(ドストエフスキーの「罪と罰」の主人公)という感じでしょうか。ひと月以上前に読み始めて今日の午後にやっと読み終わりましたが、なにしろ疲れました。以下、完全にネタバレですので、この長大な小説をこれから読んでみようと思う方はご注意ください。
主人公はフランスでレース工場を営むもとナチス親衛隊中佐のマックス・アウエ。彼の1941年独ソ戦が始まる時期からベルリンが陥落する1945年4月末までの回想が、上下二段組み900ページにわたって描かれる。アウエは決して悪辣非道で冷酷な悪魔のようなナチスの親衛隊員ではなく、法学博士にして古典文学にも造詣が深く、フランスの典雅なバロック音楽を好む超の字が付くインテリで、人柄も高潔、フランス語も堪能な人間である。
彼はナチス親衛隊の将校として、最初はウクライナで、ショスターコーヴィチの交響曲の題名にもなっているバビ・ヤールのユダヤ人大虐殺に立ち会い、クリミアでコーカサスのユダヤ人たちについて研究し、独ソ戦の転換点となるスターリングラードへ転属した後、頭部に重傷を負ってベルリンへ戻る。そこで今度はイギリス軍の空襲にあったりしながら、ヒムラーのもとでユダヤ人を労働力として使うために、ユダヤ人を絶滅させようとしている収容所所長や、有名なアイヒマンたちと折衝し、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所やハンガリーを視察した末に、ソ連軍に追われながらポーランドからベルリンへ逃げ延びて、ナチスドイツの崩壊を見届けることになる。実在の人物が山のようにたくさん出てきて、訳注もはんぱじゃない。
いわゆるナチスの悪逆非道な犯罪的行為の現場に立ち会った人間ということになり、いろんなエピソードもものすごく、拙ブログでもこれまで書いたことのある
「炎628」とか
「善き人」とか、
ピーター・オトゥールの「将軍たちの夜」、あるいはドイツ映画の「スターリングラード」、それに
「ジェネレーション・ウォー」のような映画や、
「人生と運命」とか
「プラハの暗い夜」、同じコホウトの「愛と死の踊り」のような小説や、フランクルの「夜と霧」やプリモ・レーヴィの「アウシュヴィッツは終わらない」を連想させられた。最後の逃避行中に出くわす子どもたちの軍隊などはゴールディングの「蠅の王」みたいで、なにしろ読みながらめまいがするほどのおぞましい話のオンパレードだった。
そうしたエピソードの合間に、ナチズムのもとで、悪とはなにか、という途方もない思弁が繰り返される。なにしろ主人公のアウエ以外にも、出てくる人物たちがみんな下劣な殺人鬼で、性格の歪んだサディストで、ユダヤ人を憎むレイシストである、というわけではまったくない(もちろん、そういう歪んだサディストも、ただのレイシストもたくさん出てくるけど)。彼らなりに与えられた任務に忠実であり、ユダヤ人を感情的に憎んでいるわけではない。コーカサスの山岳ユダヤ人たちが真正ユダヤ人であるかどうかを親衛隊と国防軍が言い争うシーンなど、学問的な緻密さ、教養の高さを示すと共に、悪い冗談のようであり、かつ、なんと下劣なことか。
また、実在した親衛隊の判事ゲオルク・コンラート・モルゲンという「立派な」法律家が出てきて、アウエと意気投合するが、彼は立場を利用して私腹を肥やす収容所所長や看守を訴追し、命令によってユダヤ人を殺害することと、自らの欲望のためにユダヤ人を殺害することを峻別する。しかし、ユダヤ人が死ぬべき運命であることに対しては何の疑問も抱かない。
アイヒマンも人々を自宅に呼んでバイオリンを合奏したりするし、障害者を安楽死させるT4作戦に関わった家族思いの親衛隊員デルについては「身内に対して善良、他人には無関心で、しかも法を尊重していた。わたしたちの文明化された民主的な都市の誰かれに、これ以上の何を要求できようか」(下巻57ページ)と言われる。
ハリウッド映画のように、ナチスをたんなる悪魔のような下劣な「悪」として、普通の人間と切り離してしまうことに、僕はずっと違和感を感じ続けてきた。結局、この小説も、拙ブログのテーマの一つ、世の中には悪人と善人がいるわけではなく、普通の人が悪いことをするから人間は恐ろしい、という文句を繰り返すための、よい実例だと言えると思う。いずれにしても、普通の人が普通の人を普通に殺して恥じないような時代が来ないことを祈るしかない。
さて、この小説はそうした戦争の話とならんで、主人公アウエの個人的な話も語られる。ここから先は本当に完全にネタバレ。先にアウエは高潔な教養人だと書いたのだが、近親相姦の同性愛者で、性的には変態と言って良いだろうし、なにより犯罪者でもある。ユダヤ人以外にも、義父と母を惨殺(?)し、オルガンでバッハを演奏しているドイツ人貴族の老人を無意味に殺し、命の恩人の大親友すら、やはり無意味に殴り殺す。
ただ、アウエはスターリングラードで頭を狙撃されるのだが、そのシーンは長大な夢幻的なシュールな描写が続き、いつ撃たれたのかも含めて、なんだかよくわからない。そして、その後の話も、ある意味では夢の中の物語のようで、上記の殺人も、母殺しの犯人として執拗にアウエを追う二人組みの刑事も、どれもなにか変な眩暈感がある。アウエの後ろ盾になる大物のマンデルブロートとその取り巻きの美女たちもなにか実在感が乏しく、とくに最後に登場するシーンは本当の話なのかどうか、義父と母の惨殺の真相は二人組みの刑事が言った通りなのか、そもそもその刑事自体が本当に実在したのだろうか? そして最後の最後にヒトラーから勲章をもらうときのエピソードも、冗談を通り越して笑ってしまうような話で、それまでの小説のリアリティがガラガラと崩れていきそうになる。スターリングラードでアウエは死んで、その後の話は彼の魂が見ている夢なのではないかと、そんな妄想すら浮かんだ。
いずれにしても、信念に基づいて強欲な金貸しの老婆を殺し、同時にその妹も殺してしまった19世紀のペテルスブルクに住むラスコーリニコフは、後悔の念に苛まれるとともに、娼婦ソーニャに諭されて自首するし、「悪霊」のスタヴローギンや「カラマーゾフ」のスメルジャコフは自殺するが、ナチズムという信念に基づいて無数の人々を虐殺したアウエはこううそぶく。
「殺す者は、殺される者と同じように人間なのであり、それこそが恐るべきことなのだ。あなたがたは、わたしは人を殺したりしないだろうと言うことは決してできないし、そんなことは不可能であり、せいぜいのところこう言えるだけだ、わたしはひとを殺さないようにと望んでいる、と。わたしだってやはりそう望んでいたし、わたしだってやはり健全で有益な人生を送り、人間たちの中のひとりの人間、他の人々と対等な人間でありたいと思っていたし、わたしだって人々の共同の活動にわたしなりに貢献したいとおもっていたのだ。」(上巻34ページ)
人類の歴史には数え切れないほどの凄惨な出来事がある。そして、それらの当事者の思いは結局この通りなのだと思う。
すさまじい小説だった。

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