例によってスカパーのシネフィルで見た。ある意味で、拙ブログのメインテーマの一つがテーマになっている映画だった。
主人公は家事を全くせず、病気の母にも構わない妻と、やんちゃ盛りの子供二人に囲まれて、文句も言わずに料理を作り、家事をし、病気の母の看護をする、まあちょっとやりすぎっていうような出来過ぎの大学の文学教師。最初の方のこのバタバタぶりはちょっといただけないと感じた。
この主人公、精神的にちょっと変なところがあって、なぜか突然グスタフ・マーラーの歌が聞こえることがある(この唐突に挟まれるマーラーの歌の幻想がなかったら、この映画はつまらないものになっただろうなあ)。それで、親友のユダヤ人心理学者に見てもらっている。時はまさにヒトラーが政権を握った直後から1938年までと、最後に1942年がエピローグのように付く。
これ以上善良な男はいないだろうってぐらいの主人公は、当然最初は反ナチスだけど、昔書いた安楽死の小説がヒトラーに認められて、
以前から拙ブログで何度か触れたナチスのT4作戦の責任者ボウラーと知り合い、この作戦の言わば理論的なお墨付きを与える立場になる。親友のユダヤ人は当初は、逃げたらヒトラーの思うつぼだし、自分が生まれたのはドイツだし、第一次大戦ではドイツ兵として戦ったという自負もある。しかし、さすがに我慢しきれず、亡命するために主人公に切符購入を頼む。しかし主人公は「偶然」にも邪魔されて購入できない。1938年11月のいわゆる有名な「水晶の夜」(集団的なユダヤ人迫害)の日がせまってくる。
うーん、今の日本の姿だ。主人公はなにしろ善良な男だけど、どんどんナチスに取り込まれていき、のっぴきならないところへ追い込まれる。追い込まれると書いたけど、別に主人公は追い込まれたわけではない。ある意味で高をくくっていた、親友のユダヤ人のような切迫感もなく安穏としていたわけ。同時にナチスに取り込まれることによって自らの出世も果たせる。
主人公は善良な人間というより、まあ普通の人なんだ。普通の人がナチスになったわけだよ。だけどそれだけじゃない。最近こんな本を読んだ。
まあ、読みやすい本じゃなかったんだけど、軍人という困難な状況のなかで、ユダヤ人や捕虜を虐殺から救った人たちのことが書かれたもの。結果的に逮捕されて処刑されたり、ソ連側へ逃げて、そこで死んだり、戦後もそのことを顕彰されることもなく無名のうちに亡くなったりする。だけど、彼らが他の人と違って特別高潔な人柄だったとか、英雄的な人物だったというわけではない。理由も様々で、囚人との同性愛関係とか、ユダヤの美少女に惚れて一緒に逃げたとか、いろいろあるんだけど、でもそうした利害の絡む理由もないケースも多い。大昔読んだ本にこういう本があった。
もう完全に絶版みたいだけど、図書館にはあるんじゃないかと思う。個別の話はもうすっかり忘れてしまって、断片的なエピソードしか覚えてないけど、こちらでは市井のドイツ人の抵抗者たちの話だった。彼らの多くは何の組織にも加わらないまま、ヒトラーの暗殺を企てたり、密かに反ナチスのビラをまいたりして捕まり、やっぱりほとんどが処刑される。だけど著者の池田浩士が強調していたのは、彼らは英雄ではない、普通の人だったんだ、ということだった。困難な時代にあえて自らの死を賭して不正を見逃せなかった彼らを特別な人間として、普通の人とは違うんだ、と英雄化してしまってはいけない、彼らは普通の人だったのだ、と。
映画のように、普通の人がナチスにもなり、普通の人がナチスの不正を見逃せず、自らの命を失う。その差はなんなんだろう?

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