上下二巻で、正直に言うと読みやすい本ではなかった。
フクシマよりも前に書かれた本だから、ここに放射能のことはひと言も書かれていない。著者のダイアモンドは最後に楽観的な見通しを書くが、フクシマ後の日本を見る限り、これはとても信じられるものではない。もう手遅れではないか、という気持ちが強い。なにしろ人類は過去に学ばないのだ。
原発のような、目の前の、あれほどまでに分かりやすい事態を目にしても、権力者や金持ちたちが、まだ原発を推進し、海外へも売り、経済を活性化させて成長するなんて言っていて、それを人々が応援する(支持する)ような状況でこの本にあるような数十年後の危機に、人類は何か行動を起こせるだろうか?
この本の中に、ライトモチーフのように繰り返される泣きたくなるような寂しいイメージがある。豊かな椰子の木が林立していたイースター島は、数百年のうちに椰子の木どころか、木そのものが全くない不毛の島になってしまった。「最後の椰子の木を切り倒した島民は、その木を切りながらなんと言っただろう」(上p.182など)というのがそれだ。
「仕事なんだから」とか「木に代わるものが見つかるさ、テクノロジーが解決してくれる」とか、「この島には木がないと証明されたわけじゃない、もっと探してみなくては。伐採をやめるなんて馬鹿げてる。悲観論に踊らされているんだ」(上p.182)とか、現代でも通用するいろんな理由を付けたのかもしれない。。。
でも、おそらく一番信憑性のある想像は最後の方に出てくる「風景健忘症」(下p.226)説だ。長い年月掛けて森林が破壊されていき、それぞれの世代はその前の世代が見ていた風景を知らない。そうやって徐々に森が林になり、数本の木になり、最後の一本になり、なんの疚しさもなく最後の一本は切り倒された。
だけど、いま日本で起こっていることは風景健忘症ではなく、あまりに情けないことだ。
たとえば、フクシマ後、ぼくらは自分たちの生活の質を落とす覚悟をもつべきではないのか、エネルギーの消費量も落とし、再生エネルギーでまかなえる範囲での生活を心がけ、食料にしても新奇なもの、豪奢なものを求めず、余らせず、捨てない生活への見直しが必要なのではないか、僕らの生活様式を見直す必要があるのではないか。こう言う人がずいぶんいた。すると、何をきれい事を言っているんだ、偽善だ、という声が必ず返ってきた。偉そうなことを言うな、現にお前だってパソコンをインターネットにつないで電力を消費し、言いたい放題のことを書いてるじゃないか! だが、この本を読むと、こんなレベルの低い話をしているような事態ではないことがわかる。
この本の上巻ではイースター島をはじめ、森林乱伐や土壌問題、水源問題、動物や魚類の乱獲、外来種による環境侵害などで滅んでいった過去のさまざまな文明の顛末が語られる。下巻では、わずかに環境破壊を免れた例として徳川幕府の森林政策も述べられるが、これとて、とても誇れるものではなく、アイヌ民族との貿易を増やすことで、別の場所の資源を枯渇させて自分たちの資源を保護したに過ぎないことが分かる。これは今の日本も含む先進国の状態と同じだ。日本は先進国では有数の森林保有率を誇るが、一方で森林保有率が非常に低いオーストラリアから安い木材をどんどん輸入して、オーストラリアの資源枯渇を招いている。先日のバングラデシュの衣料品工場崩落だって、環境問題とは直接繋がらないけど、おなじ文脈で考えられることだ。しかし、もう国内だけよければ良いという時代ではない。
下巻には現在の日本や世界のことを思わせる不安な話が山ほど出てくる。1990年代のルワンダの大虐殺は部族間の古くからある対立や憎悪が原因なのではなく「支配層がみずからの権力維持を目的として」(下p.69)両部族に憎悪と恐怖を呼び起こしたものであるとともに、この当時、ここの農業社会は裕福な者と貧しい者に二分され、中間層が減っていき、貧富の差はますます拡大しているところだったという。今の日本の社会でも似たようなことが起きていないか? 支配層が率先して弱者や少数者、あるいは他国に対する憎悪や恐怖を呼び起こし、差別を助長し、貧富の差をどんどん拡大しようとしているのではないか?
そしてこれは地球規模で見たときに、もっと恐ろしい構図になる。第三世界の人々が現在の先進国のレベルの生活を求めても、これは資源の絶対量から考えて不可能である。一方で、ぼくら先進国の人間は現在の生活水準を落とすつもりはない。これでは日本国内の構図がそのまま世界規模に拡大されているだけだ。環境保護が見事に差別や格差の構造とも結びつく。
下巻では最後に環境保護のための企業の役割と、それに関連して希望的な観測が述べられている。しかし、行きすぎてしまった資本主義と強大な国家や企業に対して、個人としてなにができるかを考えたとき、暗澹たる気持ちになる。おそらく僕ら個人にできるのは、国の舵取りをする人間を選ぶことぐらいしかないのだが、それだってこの前の選挙や今度の参院選予想を考える限り希望が持てる話だろうか?
しかし、近い将来に待ち構える運命は、この地球にいる限り、みんな同じなのだ。権力を持つものたち、金持ちたちが、そして僕らみんなが覚醒しない限り、近い将来、間違いなく人類は滅びる。だが、「崩壊しつつある社会を支配する裕福な人々は、自分や自分の子供たちの権益を確保するのではなく、最後に飢える人間、最後に死ぬ人間となる特権を、やみくもに買いに走る傾向がある」(下p.348)のだ。環境問題は経済のあり方とも直結している。
こうした意見に対して、問題から目を背けるための定説というのがある。典型的なものとして「環境と経済の兼ね合いが肝心なのだ」(下p.335)というのと「科学技術が問題を解決してくれる」(下p.337)というのを考えてみると、前者はたんに問題を未解決のまま放置するための、せんがための理由に過ぎず、そんな段階はとうに過ぎた。また後者は確かに科学の進歩は多くの問題を解決してきたが、それを上回る速度で新たな問題を発生させてきたのである。だから今があるわけだ。
アメリカでは裕福なエリートたちはゲートシティを作って、周辺住民とは隔絶した町を作り、自分たちの安全と快適さを金で買い、社会福祉を充実させようとする税制度に反対する。しかし、このままいけば、こうした裕福なエリートたちも「結局、最後に飢える特権」(下p.360)を得るだけということになる。そして過去の事例は、この「最後に飢える特権」に付随するのは人肉食というおぞましい事態だということも教えている。まるで
以前書いた映画「ザ・ロード」みたいな話だ。
ダイアモンドの次の言葉をしっかりと頭に刻んでおきたい。「現在の子供たち、若者たちが生涯を終えるまでの間に、世界の環境問題は何らかの決着を見るだろう。問題は、それが自分たちの選んだ快適な方法による決着か、戦争、大量虐殺、飢餓、疫病、社会の崩壊など、選ばざる不快な方法による決着かということだけだ。」(下p.326)
この本のテーマは「どの社会のどの個人や集団であれ、社会全体に有害なことを、そうと知りながら行うのはなぜか?」(上p.61)ということだ。そして細かい事例にはいくつものバリエーションがあるだろうが、「なぜか?」の最終的な答は古典が教えてくれる。
シラーの言葉「どんな人間も、個人として見ればまずまず分別があり、道理をわきまえているが、群衆の一員になったとたん、愚か者に変わってしまう」(下p.239)からだ。
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