うーん、きょうは大島渚について書きたかったんだけど、計画変更。
しかし、ぼくには意味が分からん。生活保護の基準額が低所得者の生活費を上回っているから、生活保護の支給水準を下げるっていうんだけど、こんな悪い冗談みたいな話、みんなどうして普通の顔して聞いていられるんだろう??
憲法25条にはこうある、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」そして生活保護っていうのはこの憲法の条文の保障するためのものであるはずだ。だから、普通に考えたらこうなるはずだ。
現代日本の低所得者層の生活費は、憲法に基づいて保障された生活保護の基準より低いのだ。だからなんとかして低所得者層の所得レベルを底上げしなくてはならない。さもないと憲法違反だ。
ところが世の中にはこのような抑制案に諸手をあげて賛成する人達がたくさんいる。日本という国はほんとうに、想像力の枯渇した、憎しみと、ねたみと、ざまあみろの気持ちが蔓延する酷薄な国になってしまったらしい。まさにイジメは子供たちだけの話ではない。国のあり方がすでにイジメの構造を持っているとしか言いようがない。いじめられている人々が、自分よりももっと弱いものを見つけていじめる、というグロテスクな構造だ。
不正受給者がいる、っていうけど、ヴィキペディアで「生活保護の不正受給」を見れば書いてあるように、不正受給率は件数にして全体の1.8%、額にして0.38%。普通の神経の人ならこれを多いとは思わないだろう。こんなものよりもずっと問題な不正なんて世の中にいくらでも溢れている。これについては前に書いた。
→改めて、みんなどうかしてるよことはこの国の「哲学」なのだ。国ってなんのためにあるのか、憲法に書かれたことをどう保障していくべきなのか、っていう国としての「哲学」なのだ。自分は生活保護などもらわない、と言って無関心でいるのは、この国の行く末に無関心であるのと同じだ。生活保護はこの国の国民にとって、最後の命綱なのだ。これはこの国の国民を守る「象徴」なのだ。もういちど、拙ブログのエピグラムを見てほしい。いまの日本の社会はこれとまったく逆の方向へ向かっていこうとしている。
「その社会の質は、最も弱き人がどう扱われるかによって決定される」(元ドイツ連邦副議長フォルマーの言葉)
----追記 2013,1/17,8:45
今朝の東京新聞によると、厚労省の発表では不正受給率は0.4%だそうだ。よく分からないんだけど、ヴィキの記事では「件数にして」という言葉に引っかかりを感じたんだけどね。この0.4%は受給者全体の人数のなかで、ということなのかな? それとも上にも書いた額のことなんだろうか?
いずれにしても、以前に書いた比喩だけど、1000人の人が住んでいるビルにテロリストが4人いるからといって、ビルごと爆破するのが、人間のやることか? しかも、これを大マスコミが非難しないっていうのが理解できない。きっと、貧富の差をさらに広げ、貧しい人達に危険な仕事(たとえば原発作業、たとえば軍隊)をさせようというのが権力を持っている人達の思惑なんだろう。そして、それを日の丸を振って賛同する人達と大マスコミ。
上にも書いたように、国の哲学の問題なんだよ。日本という国を、誰でも安心して暮らしていける国にしよう、などとは露ほども思っていない連中が権力を握り、しかも、それに同調している人達がかなりたくさんいる、そしてそのことに無関心でいる人はもっとたくさんいるっていうことが問題なのだ。
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