「どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか。それを考える契機にならなければ、わたしの妻と娘、そして被告人も犬死にです」
ネット上で、この本村さんの言葉がほとんど取り上げられていないのは、やっぱり、彼が僕らに突きつけているものの大きさが原因なんだろうと思う。この言葉の中にある「それを考える契機」の主体はむろん僕らだ。
つまり本村さんは、どうすれば死刑という残虐で残酷な刑が下されない社会にできるか、を「皆さん」が考えるきっかけにしてくれなければ、3人は犬死にです、と言ったんだ。映画を見るような気持ちで今回の死刑判決を支持した人たちにとっては、居心地の良くない言葉だろう。だからネットであまり取り上げられていないんじゃないだろうか。
言うまでもなく、本村さんが犯人を殺してやりたいほど憎んだのは当たり前だ。だけど、僕らまで一緒になってその憎しみを共有するのはどうなんだろう?死刑反対と言うと、被害者や遺族の気持ちになってみろ!って言われる。でもここで言っている被害者や遺族の気持ちは「憎しみ」のことで、「悲しみ」のことではないんじゃないだろうか? 映画を見るような気持ちで死刑を支持している人たちにとって、共有された憎しみは、死刑判決でぬぐえるかもしれない。でも、当事者たちの悲しみは、よもやそれでぬぐえるはずはない。
死刑を支持する85%の人たちには、ぜひ、この本村さんの言葉をもう一度よく考えてほしいと思う。
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