「ダーティ・ハリー」とか、あの手の映画が嫌いだ。いや、見始めちゃえば、引き込まれるんだけどね。でも、悪役はどこまでも悪党で、これでもかっていうぐらい憎らしいことをして、最後はズドーンとマグナム44で撃ち殺される。見ている方はそれでスッキリして気分は良いんだろうけどさ。映画だからいいじゃないか、そんなに目くじら立てるようなもんか?って考えてもいいんだけどね。ただ、死刑賛成という人が多いのも、こういう映画の影響って大きいんだろうな、って思うわけ。なにか重大事件の容疑者って、あの「ダーティ・ハリー」の悪役みたいに、どこまでも悪党じゃないといけない、悪党であるはずだ、悪党であってほしい、悪党であらねばならぬ、そんなふうにみんな思っているんじゃないだろうか?映画の観客もTVや新聞の読者も、悪い奴がこの世からいなくなって、ああ、よかったって思って、でも、そこまでで、それ以上にはならない。まあ、映画はそれでも良いんだろうけどね。
先日の
光市の死刑判決の後の被害者本村さんの言葉も、このあたりのことを突いているんだと思うよ。当事者でない人間は死刑制度に賛成だって反対だって、判決が確定したら、それでおしまいだからね。あとは人ごとだから、しばらくすれば忘れてしまう。でも、本村さんにとっては一生続くんだよね。だから、それでおしまいにしないで、みんながどうすれば死刑なんて言う残虐で残酷な刑罰を下さないですむ社会を作れるのか、それを考えるきっかけにできないなら、3人は犬死にだと、あえて強い表現を使ったんだろうけど。。。。
人類の歴史っていうのは犬死にの連続でなりたっている。人類って歴史から何も学ばない。科学や技術の発展は確かにあるだろうけど、それでホントに人類の進歩と言えるのかどうか。人類は月まで行ったけど、大都会の真ん中で餓死したり衰弱死したりする人がいるんだから、とても進歩なんて言えないよね。
少し前に読んだ小説に、カナリア諸島のある部族の話があった。その部族では酋長は占いにより決められたある年のある日に首を切られて殺され、首だけが次の酋長の席の隣に置かれるという。なにか部族にとって重要な決定をするときは、その首にもお伺いを立てるわけ。そして新たな酋長も占いによりある日首を切られて殺されると、前の酋長の首にかわって新たに新酋長のアドバイザーになる。前の首はここでようやく晴れてお役ご免になり、埋葬されるんだそうだ。
これってどういう意味かっていうと、前任の酋長の経験を無駄にしないということなんだろうね。むろん現代人の感覚からすれば無知な未開人のグロテスクな風習ってことになるのかもしれないけど、彼らにしてみれば、ひとりの人間の持つ英知を次の世代にも生かしたいと思ったわけだろう。
なんでこんな事を書いているかって言うと、まだ上巻の途中なんだけど、この本を読んでいるから。
しかし、この本、胸の悪くなるような話ばかり。強烈な新自由主義に対する批判だ。批判と言うよりも、その犯罪行為の告発だ。
以前紹介したトニー・ジャットの「荒廃する世界のなかで」では、新自由主義の由来とその問題点が上品でおとなしく説明されていたけど、この本はかなりセンセーショナルな内容で、これがそのままホントなら南米南部では、悪魔の所行と言っても良いような恐ろしいことが行われたわけだ。いや軍事政権によるひどい話はいくつもの映画にもなっているし、当時から人権無視のひどいところだというのは有名だった。でもその背後にはノーベル賞受賞者のミルトン・フリードマンを中心とした新自由主義の経済政策があったということなんだ。ショックに乗じて市場万能の経済政策を持ち込み、短期間に金持ちを大金持ちにし、公的な社会保障制度を解体して中流階級を貧乏人にしたわけ。しかし、フリードマンとピノチェトの関係なんて、全く知らないことだった。フリードマンがプチヒトラーか、あるいは小型のスターリンという印象の独裁者ピノチェトの後ろ盾だったとはね。
この後も東欧ロシアやイラクで同じようなショック・ドクトリンが行われているっていう話になるらしいけど、なんかこんな話を延々とまだまだ読まされるのかと思うと、ちょっと参る。
しかし、なにしろ過去に学ばないからね、人類は。40年前に南米で行われた経済実験は、場所を変えて日本でも少しずつ行われてきたんだろう。今回の震災後の農漁業に関する特区構想なんかも、この本を読んだ後では、「日米の大資本による三陸の豊かな漁場独占をハゲタカのように狙った規制緩和策だ」、なんていう、以前だったら眉唾と感じたような話も、かなりの信憑性を帯びてくる。さすがに40年前の南米南部とは違って軍事政権ではないから虐殺や拷問や行方不明はないだろうけど。。。
それから、私は学者ですから専門以外のことは知りません、っていう新自由主義の経済学者たちの態度。上記のように多数の人間を殺させ、貧富の差を拡大して不幸をたくさん作り出しておきながら、その責任はつゆほども感じないし、追求もされなかったというのも腹の立つ話である。それは
原発を推進することに荷担していながら、フクシマ以後は、自分はただ原子力の研究をしてきただけで、国がそれで何をしたかなんて知らないっていうふりをしている日本の学者たちも同じだ。
将来の歴史には、ミルトン・フリードマンの名前はナチスの思想的なバックボーンになったと言われているローゼンベルクの名前と並べて表記されるようになるのかもしれない。いや、もしこの本に書かれていることがホントなら、「かもしれない」ではなく、「ねばならない」だ。
この項、ひょっとしたら下巻まで読み終わってからまた書くかもしれません。ただ、下巻まで読み通すのが精神的にそうとう辛そう。
【この項、かなり加筆訂正しました 2012年3/10, 14:00】
良ければ、下のボタンを押してみてください。

にほんブログ村
- 関連記事
-
スポンサーサイト