正月3が日に映画を見に行ったのは大昔にもありました。たしか池袋の文芸座でした。今日は昼過ぎの渋谷はユーロスペース。この映画館もできたばかりの頃に何度か行ってるはずなんですが、場所変わったのかなぁ?場所すら思い出せず、家に電話して連れ合いにネットで検索してもらいました。やれやれ。
ブリューゲルの動く絵HPへ
というわけで、表題の映画、期待が大きすぎました。映画の中で実際の絵画を活人画で描くというのは、大昔見たデレク・ジャーマンの「カラヴァッジョ」でもやっていたと思うけど、この映画では登場人物がずっと多いのが特徴と言えましょうか。ブリューゲルの時代、フランドル地方はスペインの圧政に苦しんでいた時代で、そんななかでブリューゲルとパトロンのヨンゲリンクは、その時代の苦しみをキリストの受難に仮託しようとするわけです。
悲惨な時代を背景に現代のキリストを描こうとするわけで、最初、ブリューゲルの想像と思われたキリストとその周辺の人々の姿が、そのままブリューゲルの時代に登場し、イエスをゴルゴダへ護送する兵士達は、ブリューゲルの時代の残虐なスペインの傭兵達になります。聖母マリアは、当初フランドルの農婦の姿で現れます。
こんなふうに渾然一体というか、時空を超越した眩惑感を感じさせるのだけど、話のおもしろさが今ひとつないんだなぁ。
監督がポーランド人だというので、この国の悲劇的な歴史を思えば、もっといろんな事を仮託できたのではないかという気もするんだけどなぁ。たしかにパトロンのヨンゲリンクはスペインの圧政と宗教的不寛容を批判する。映画が描くブリューゲルの絵「十字架を運ぶキリスト」の解釈も、人々は歴史的な大事件を目の当たりにしても、自分に関わりがない限り無関心だという台詞(まるで、今の日本のことだ!!)が出てくる。でも、そういうポイントになりそうなメッセージよりも、ブリューゲルの絵を動かすことが一番の目的になっちゃって、なんとなく映画そのものが浅くなってしまったような気がするんだなぁ。
それに、この絵が動くという奴はCG合成がけっこうあからさまで、正直に言って違和感を感じましたね。絵の内容から絶対に必要なことはわかるけど、岩山と風車は、あれは失敗じゃないかなぁ。
あちこちでブリューゲルの絵の中に出てくるようなシーンが出てくる。草むらにだらしなく横たわる若者とか、盲人達、あるいは騒々しく遊び騒ぐ子供達や楽士達や「干し草作り」に描かれる頭に大きなかごを乗せた3人の人々。ただ、あのブリューゲル特有の岩山は空想の世界や、イタリア旅行時に見たアルプスの山々の合成のはずだから、それも含めてすべてはブリューゲルの頭の中の風景を映画化したというのだとしても、ベルギーのアントヴェルペン近郊にあんな岩山があることに、ちょっと不満が残るんだなぁ。
映画を見ながら、タルコフスキー監督の「アンドレイ・ルブリョフ」という、ロシアの中世のイコン画家の映画を思い出していた。
(例によってアマゾンのカッタルコフスキーのレビュはわたしです 笑)
同じように、当時タタールのくびきと呼ばれる圧制下で、凄惨な時代の苦難を嘆く主人公の想像のシーンに、雪の中を十字架を運ぶキリストのイメージがあった。主人公のルブリョフは寡黙なんだけど、その時代に対する苦悩がにじみ出ていて、それはそのまま当時のソ連の現状に苦しむタルコフスキー自身の姿にオーバーラップする、凄い映画だった。この映画は白黒なんだけど、最後に延々とルブリョフ作の残っているイコン画がカラーで、これでもかって言うぐらい映し続けられる。今回の「ブリューゲル」でも、実際に展示されているウィーン美術史美術館にある「十字架を運ぶキリスト」の絵が映され、カメラが引いていってジ・エンドになる。こんなところもあって、なおさら「ルブリョフ」と比べたくなる。でも、これは比べたらタルコフスキーには失礼、こちらの映画には気の毒というものだなぁ。
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