少し前に友人と現代社会の悪口を話していて、ふと思った。昔は子供は「立派な人」になれ、と言われたんじゃないか?でも、今は子供は「偉い人」になれ、と言われているのではないか? ふと、そんな風な連想が、どういう言葉からか忘れたが、わいて出た。
「立派な人」と「偉い人」とは、当たり前だけど、違う。日本の社会に「偉い人」はたくさんいるが、おしなべてみんな「立派な人」ではない。「偉い」九電の幹部たちや、同じく「偉い」佐賀県知事は、「立派な人」なら、即辞任するだろう。都合の悪いことに目をふさいで原発を推進してきた「偉い」東電幹部や「偉い」学者たち、「偉い」官僚や政治家、「偉い」マスコミ、簡単に言って責任ある「偉い人」たちは、「立派な人」なら、すぐに謝罪するとともに、私財をなげうって、できる限りの責任を取ろうとするだろう(そもそも「立派な人」ならあんなやらせなんかしなかっただろうし、都合の悪いことを隠すなんてこともしなかっただろう、っていう突っ込みはおいといて)。「偉い」官僚が「立派な人」なら天下ったりしないだろう。他にもいくらでもこの手の例を出てきそう。そういう意味では「立派な人」は死語かもしれない。
うちは朝日新聞はまもなくやめて、東京新聞に変えるつもりでいるんだけど、昨日は1面、今朝は3面にある「プロメテウスの罠」の「研究者の辞表」の木村真三さんの話を読むと(まだ2回目だし、この先はなしがどう転ぶかわからないけど)、どうも朝日をキッパリやめるのに二の足を踏んでしまう。他にも今回のフクシマがらみだと、原発の危険性を言い続け、それにもかかわらず、今回の事故を原子力関連の研究者として謝罪し、なおかつ「決死隊」に参加された小出裕章さんもそうだ。残念なことに、人の上に立つ、責任ある(はずの)「偉い」地位に、なかなかこういう「立派な人」はいない。
ただし、「立派な人」を英雄化することだけはやめよう。英雄に祭り上げると、それでもう自分とは違う人になってしまう。そうではなく、みんなが「立派な人」であろうと意識するだけで、この社会は、どの人にとってもはるかに住みやすいものになるのではないかと思う。自分が「立派な人」だなんて、とても思えない。ずるくて、欲張りで、なまけものだ。だけど、「立派な人」になりたいと意識しておくことぐらいなら、ぼくでもできそうな気がする。
NHK教育で放映されている「ピタゴラスイッチ」という番組がある。なかなかとぼけた味わいがあって、つい見てしまう。コンテンツのなかに「アルゴリズム行進」というのがある。何人かが並んで一斉に、「一歩進んで前ならえ、一歩進んで偉い人、ひっくり返ってペコリンコ~」っていうメロディーに乗ってそれぞれポーズを取るのだが、それがうまい具合にぶつかり合わず、しかもそれぞれのポーズが前後の人のポーズと連動していく不思議な踊りみたいなものなのである。
その「一歩進んで偉い人」という歌詞のところでは両手を腰に当てて胸を張って、いわばエッヘンのポーズをする。この踊り(?)では、偉い人はカリカチュア化され、笑いものにされている。親は自分の子供に「偉い人」になれ、なんて言ってはいけない。「偉い人」は威張りたがるだけなんだから、是非「立派な人」になれ、と言うようにしてもらいたいと思う今日この頃なのだ (某有名ブログの口まね
)
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