少し前に聞いた親しい友人の話。ネットでドイツの古本屋で本を注文した。注文後しばらくして、その古書店はカードが使えないことに気づいた。口座振り込みだと購入代金以上の振り込み手数料(4,5千円?)を取られる。そこで慌ててメールで注文をキャンセルしたが、返ってきたメールは「すでに品物は送った。今回は代金はいい、いつかドイツへ来たときに払ってくれ。読書を楽しんでね!」とあったそうだ。
こういうドイツ人の誠実さ、公徳心の高さ、親切さの話はよく聞く。そしてそういう話を聞くとき、いつも思うのは、いまから70年ほど前には、そうしたふつうの善良なドイツ人たちが何百万人もの無抵抗のユダヤ人やロマ、障害者や共産党員、あるいはナチスに反対した人たちを、心に痛痒を感じることもなく殺した、あるいはそれに荷担したということだ。
収容所の所長や監視員だって普通の善良な市民だったんだと考えるかもしれないけど、ぼくはこれは考える筋道が逆だと思う。普通の善良な市民が収容所の残虐な所長になったり監視員になったんだ。どっちだって同じだと思うかもしれないけど、ぼくは違うと思う。前者のような想像力の働かせ方だと、収容所の所長や監視員に同情しちゃうけど、筋道を逆にすると、つまり普通の人が残虐さを発揮したと考えると、なぜ?という疑問が生まれてくる。
これまで何度か書いたけど、この社会は99.9%の普通の善良な人がいて、0.1%の悪党がいるわけではない。いや、世の中「水戸黄門」みたいに悪代官と善良な町人しかいないんだったらわかりやすい。でもね、そうじゃないでしょう? 漱石の「こころ」の先生の台詞に、人間が怖いのは普通の人が悪いことをするから、という台詞があったと思う。
人間ってそういう生き物なんだと思う。だけど、せめて、社会のシステムとして、そういうことをさせないですむ、あるいはしないですむようなシステムを作らなくてはいけないと思うわけ。たとえばファシズムの時代は、多くの善良な普通の人に悪いことをさせる時代だったんだって考えてみれば、わかりやすい。じゃあ今の社会はどうだろうね?
ここからは、あえて牽強付会と言われることを覚悟の上で書くけどね。
現在の市場万能主義というか、いわゆる新自由主義とやらの弱肉強食的な何でもありのやり方、金のあるところに金が集まるようになっているシステム、会社は社員の者ではなく株主のものだと言われ、失業は自己責任、生活保護の対象者は「ただのり」と言われる。
よく思うんだけど、「オレオレ詐欺」を始め、老人を騙したり老人からひったくったり、あるいは困っている人を狙うような火事場泥棒的な犯罪、むろん昔からあったとは思う。でもここまで何でもありの犯罪行為が蔓延しているのは、まさに新自由主義的な風潮が広まった頃からじゃないかと思う。というわけで、久しぶりに拙ブログではおなじみのコピペです。
「社会は強い者がより強くなるように、富める者がより富むように、力をかざす者がより強い力をかざすことができるように、そのようなことのためにあるのではありません。弱い人間を排除する社会は、私たちに必要な社会ではありません。弱い人間のためにこそ社会はあります。私たちは、そうでないときにはそうであるように社会を変えてゆかなければなりません。」(八尋 光秀「障害は心にはないよ社会にあるんだ」解放出版社)
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