宗教改革のマルティン・ルターに、「もし明日世界が消滅するとしても、今日、わたしは一本の林檎樹を植えるだろう」って言う言葉がある(正確じゃないかもしれないけど)。この言葉を知った大昔、とても感動した。でも、今、本当に福島の原発4基が爆発したりしたらと思うと、とても不安だ。ぼくはルターのような強い信仰心も信念もないから、「にもかかわらず」林檎樹を植えようという気持ちにはとてもなれない(ふと思いだした。「にもかかわらず」っていう言葉は若い頃のぼくの大好きなフレーズだったんだ)。
さて、ぼくは少し前にここで「脱原発を前提に」と書いた。みんなそう考えるんだろうと思っていたら、経済界の人たちってそう考えないのね。これには驚いた。また、それにマンマと乗ってしまう一般の人たちが、たくさんいるのにも驚いた。現実的に考えれば原発しかないでしょう、なんて言っている「ものわかりのよい」人たちがたくさんいるのにはあきれた。これまで原発を前提に考えてきたから、原発がなくなるなんて考えてなかったから、そういう思考停止的発想をするんだろうね。
脱原発を前提に考えれば、風景は一変するのにね。というわけで、ぼくも少しだけ、ホントに恥ずかしいぐらい少しだけ、脱原発の立場を勉強してみた。
まだ前半半分しか読んでないが、どれもものすごく納得できるし、勉強になる。これまで、原発前提でやってきたおかげで、やってないことが山ほどあることを知った。ぼくらは騙されていたんだ。いや、今も騙され続けているんだって思っている。
ただね、どう考えたって、今後原発をつくっても良いよという自治体はないだろうし、原発を誘致しようって言って地方自治体の首長選挙に勝てるはずもない。そして、これから先、40年を過ぎた原発は廃炉になるわけだから、どんどん減っていく原発を前提に電力供給を考えていくのはもう無理(願わくば、その前に新たに原発事故が起きなければいいけど)。経済界のお偉方がなんと言おうと、東大の御用学者たちがなんと言おうと、こと日本に限って、原発が新たにつくられることはないだろうと思う。これは、ことここに至っては、「原発マフィア」(池内了)が何しようが、東京に住んでいる無関心層が、「原発?この生活を維持するためには必要じゃない?」なんてほざこうが、原発?造っていいよ、って言う自治体は日本国中どこにもないだろうから、勝負は見えている。なかには「原発が嫌なら停電だ」と恫喝する大馬鹿もいるようだが、ほんじゃなにかい?原発があんたんちの隣にできても良いぐらい停電が嫌かい??
でもね、そんなことより前に、福島がこの後どうなるのかがかなり不安。しかし翻って、こんな状況でも経済界のお偉方たちって原発必要をアピールするって、どういう感覚なんだろう??そしてそれをしたり顔で「そうだよね」なんていうお人好しって、どういう思考回路しているんだろう。
第二次大戦時の軍部と同じで、もう一億総火の玉だ!全員で玉砕だ!って考えているんじゃないだろうね?こういう熱い言葉に乗っちゃうことが侠気だと勘違いしている人も多いしね。男は黙って原発だ、なんていって、さあ、特攻だ、戦艦大和で突撃だってわけで、がんばろうニッポンって言って、それで最後も旧軍部と同じで、敗北が決まると、責任はほっかむりして、一億総懺悔って言って、責任は庶民にかぶせて、相変わらず自分たちは日本の支配層に居座り続ける。乗せられた侠気の人も、ただ呆然としながら、俺たちが悪かったなんて言ってね。あっちでは責任者たちがベロ出して笑ってるぜよ。
この原発の問題だって、みててごらん、きっと収束した後も責任問題なんて、全く起こらないから。原発を推進してきた政治家や官僚も、そこから大金を受け取っていた御用学者もマスコミも、み~んな、知らん顔するよ。特攻隊?ありゃあ血気にはやった若者が志願して勝手に行ったんだ、って言った特攻の責任者みたいに、「想定外だからワタシら責任ないもんね~」って言って。そして国民も、「想定外だからなぁ~、しょうがないよな~、責任者たちも気の毒だよな~」なんて言ってね。
ああ、大馬鹿!福島原発がどういう結末を迎えるのかわからないけど、ここに至った責任をきちんと追及し、御用学者たちもきちんと批判していかなくちゃだめ。人間って忘れっぽいからね。つい1ヶ月前は放射能を含んだ雨が降るって半ばパニックになっていた人たちだって、今ではもうそんなこと忘れているよね。でも、福島原発の現状って当時と全く変わってないんだよね。
だんだん酔っぱらいがくだまいてるみたいになってきたので、この辺でやめます。
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