1970年頃に39歳で亡くなった高橋和巳という小説家がいる。学生運動の激しかった当時、大学生が一番読んでいる小説家だと言われた。むろんその頃はぼくはまだ中学生。そんなん読むはずもなく、ぼくが高橋和巳に夢中になったのは亡くなって5年以上経ってからだった。そんな高橋和巳の小説に「邪宗門」という長編小説があった。大学生の頃夢中になって読んだ。いまではほとんどすっかり忘れてしまったが、これは戦前から終戦直後までのある新興宗教の創設から終焉までを描いており、戦中の治安維持法による弾圧を越え、戦後教団が武装蜂起して国家とアメリカ軍によって滅ぼされるという話である。
当時、連れ合いには話したが、オウム真理教事件が起きたとき、ぼくは真っ先にこの小説のことを思いだしていた。しかし、当時の嵐のような報道に翻弄され、むろんオウム憎しの世論に同調していた。弁舌鮮やかな上祐なにがしの姿を苦々しい思いで見ていた。その後、すっかりオウム事件など忘れた頃に、森達也の「A」と「A2」を読んだ。すごいなぁと思った。なにをすごいなぁ、なのかと言えば、これだけの一方的な報道の嵐の中で、信者でもない森がオウムの側からドキュメンタリーを作ろうとしたことである。
そしてこのシリーズの完結編「A3」が出た。いろいろあってようやく読めた。オウムの裁判を通じて、森の主張はいちいちもっともである。まず、麻原の精神鑑定をめぐる冗談のような経過。被告人が心神喪失の状態にあるときには公判手続きを停止しなければならないという刑事訴訟法(これは裁判手続き上のことで、犯行を犯したときに心神喪失だったから無罪というのとは違う)を無視して、強引に裁判を進め、御用学者を使って、麻原は十分公判に耐えうるという結論を出させ(そのむちゃくちゃな論理には思わずのけぞった)、主任弁護人の安田好弘を強引に逮捕して公判に出られないようにし、さらには麻原弁護団をほとんど騙すようにして、上告をさせず、こんな重大事件なのに、しかもオウム事件はまったく解明されたとは言えないのに、一審だけで裁判終了、死刑判決が確定してしまう。
ここには警察があらかじめオウムによるサリン事件を予知していたにもかかわらず、それを止めることができなかったという事実があるのではないかと、いくつかの傍証を出しながら森は推測している。つまり、公安の不手際が裁判で明らかになっては困るという行政の気持ちを斟酌した司法が、むりやり裁判に決着をつけ、公安の失策を隠蔽したというわけである。そしてメディアも一見してあきらかな疑問(麻原は精神病のふりをしているのではなく、本当に異常な状態なのではないか)を記事には決してしない。にやにや笑いとかぶつぶつ言うとか頭をボリボリ掻くという言葉で取り繕う。
また、麻原が当初に比べ短期間でこれほどひどい精神状態になったことに、ひょっとして拘置所内であばれる収容者に対して用いられることがあると言われている向精神薬を大量に投与された可能性も指摘している。これら二つの推測はあくまで可能性だが、かなり説得力があると思う。そしてまた、非公式の精神鑑定をした医師(上記の御用学者とは別人)は、治療をすれば、麻原は数ヶ月で回復する確率は高いと言ったという。
一方、一連のオウムによる重大事件の原因を、森は、集団というものが往々にして持つダイナミズム、麻原と周辺幹部による相乗作用に見ている。裁判を通じて描かれた図式は、神聖国家を作る野望に燃えた麻原が、弟子たちに命じて(マインドコントロールして)起こさせた犯罪というところだろうか。しかし、森はレセプターという神経細胞学の言葉で、麻原と弟子たちとの関係を読み解いていく。この言葉は分かりにくいんだけど、弟子たちは麻原が気に入りそうな情報を選び出して伝え、レセプター麻原はそれを受け入れていく。弟子たちは徐々にレセプターが好む情報をねつ造していくが、このねつ造に悪意も自覚もない。そして麻原が語る危機意識を弟子たちも受け入れていく。麻原と弟子たちはお互いにレセプターと化し、やりとりを続けながら刺激し合いあおり合っていく。こうして高まった教団の危機意識がサリン事件へ暴走した。
そして、たぶん森がこの本で一番言いたかったのは、この図式はマスメディアとそれを受容する社会つまり読者視聴者との関係に似ているということではないだろうか。
麻原の裁判を通じて、マスコミはわれわれの望むような内容(オウム憎し)を報じ続け、われわれもまた、メディアが報じる内容を信じてオウム憎しの感情を高め、こうして、オウム事件と裁判の異常さは、常識で考えればあり得ない話だが、オウムだからしょうがない、麻原だから当然、という言葉でかたづけられてしまう。われわれもオウムだから、麻原だからしょうがないと感じてしまう。こうして、これは「なんでもあり」の前例となる。こういう前例は敷衍され援用されていくのかもしれない。昨今の小沢報道だってこの延長上にあるのかもしれない。森はオウム事件に寄り添いながら、そうしたオウム以後に変質した日本という国のあり方を批判しているのである。そして、次のパラグラフがこの本のクライマックスと言うことになるのだろう。
「サリン事件以降、メディアによって不安と恐怖を煽られながら危機意識で飽和したレセプター【=社会】はやがて仮想敵を求め始める。治安状況における意識と実態との乖離を、何とか埋めようとする。検察や警察など捜査権力の暴走は加速し、厳罰化は進行し、設定した仮想敵国への敵意は増大する。こうして冤罪はこれからさらに増えるだろう。自分たちは正義であり、無辜の民であり、害を為す悪を成敗するのだとの意識のもとに。」(p.492)
森達也はすごい。そのすごさは、言うなれば「裸の王様」で王様は裸だと喝破した子供のすごさである。今の日本に限らず、社会にはこういう人が絶対に必要なのである。
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